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原田事件
会津藩は裁判には長じていると世にも聞こえた藩で、他藩で何年経っても判決が出ない事例を会津藩が依頼に依り僅か4日で判決に至らせ、人々皆驚いたという逸話がある。
しかし、そんな会津藩にも、安政3年に一大事件が起こり、この裁判は、判決までに3三年掛かり、また藩主容保が訊問所を三度訪れたという。

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藩士に神戸民治、高木豊三郎、多賀谷弥七の三人がおり、何れも二十歳許りであったが、原田七郎(のちに対馬)という美少年があり、三人とも寵愛していたが、何か三人の間に問題が起こり、民治はそこ頃御小姓役で江戸へ勤番で登ろうとしていたので、その問題を解決すべく三人は高木の家に集まった。

しかし、論争により多賀谷が激怒したとみえ、「覚悟せよ」の一言と共に脇差にて神戸に切りかかれば、高木と神戸は共に多賀谷を切り倒したものの、神戸は額に傷を負い、神戸は「吾は傷を負いたれば、吾こそ首謀者なりと申し立つべければ安心せよ」と言うと、高木は辞退もせず「さらばお頼み申す」という。神戸は不満ながら、一度自分で言った言葉は取り返しが付かなかったのである。

二人で「多賀谷を斬ったのは神戸である」と申し出るも、色々な噂が立ち、疑わしい点もあった為両者対決問答も行うも、高木は飽くまでも蔽ひ、神戸も取り飾って陳述、「凶器の短刀が高木の裏の柿の根元から出た」などの風評も高く、益々高木に疑いが掛かっていった。

神戸自分が真実を言うより、高木が自ら真実を口にした方が良いであろうと、叔父の豊治を通じて高木の兄豊次郎に話をするが、豊次郎も卑怯未練の至り、民治君切腹の上には弟には出家させ弔いをさせる覚悟である」などと陳述、豊治も呆れ、訊問所へ出でて真実を伝え、初めて事実が判明し、高木直ちに物頭役に預けられたが、それでも暫くは蔽って居たが、遂に白状し、高木は牧田右京介錯にて切腹、神戸は永代揚屋入りに処されたのであった。


<参考文献>
志ぐれ草紙/小川渉/歴史春秋社
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