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原田事件の余波
『原田事件』については、先述したが、この原田事件の余波が幕末の遠く長州の地で起こっている。


原田事件で罰せられた一人「神戸民治」の父神戸内蔵盛義は180石取で、民治(盛治)の弟には岩蔵(綱衛、盛恭)がいた。

岩蔵は家名回復の為、ひとかどの役に立ちたいと藩庁に願い出たところ、藩庁は岩蔵が幼少の頃、父内蔵が江戸勤番であった為、岩蔵は江戸弁をしゃべるので、間者として長州に潜入させる事となった。

文久3年6月23日に家を出発。家族はこの日を岩蔵の命日として法要を続けた。時に岩蔵は18歳。

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 長州下関に「足の悪い乞食」が居た。周囲はその乞食の言葉に、長州弁を真似ているが、時々東北訛りが出ることがあったが、長く東北の地にも居たことがあったのだろうという程度に思っていた。
 ある夏、雷鳴轟く豪雨の時、その乞食がしきりに辺りを見回し、見る人の居ないのを見定め、急にスクッと立ち上がり竹杖を抱えて駆け出した。これを見た人が居て、足が悪いというのは嘘である、乞食というのも嘘ではないか?という評判が立ち、役人の耳にも噂が入り、乞食部屋から物乞いに出ようとする所を捕らえられたのである。

公事役所の砂利の上に引き据えられ、吟味の役人が出坐し「察する所、いずれかの藩の間者ではないか?かく縛に就きし上は釜中の魚も同然、生殺与奪は我が手中に在るぞ、真直に白状せい」と言うと、臆する気配も無く、
「吾は奥州会津藩士神戸岩蔵というものだ。藩主の為に寸功を奏したく、如何にも間者に入り込み居りしに相違なし、天運拙く見離されし上は是非もなし、斬るとも突くとも勝手にせよ」と言うのみで、あとは何を尋ねられても目を閉じて一言も答えることが無かった。

 公事奉行は、ある日「神戸氏とやら貴所の主君の為に盡すは臣下たるものの道成れど、間者と分り縛に就きし上は、掟として死刑の外なし、しかし天晴武士をむざむざ死刑に処するのは惜しい事である、就いては死刑を赦し士分に取立てるにあたり、その志を変じて我が主人の為京都に上り、幕府及びその親藩の動静を探って報告して欲しい。必要な金子は幾らでも与える、そうすればむさ苦しい乞食の真似をせずとも間者の方法は幾らでもあるし、功績があれば出世・俸禄も思いのままである。どうだ?我が藩に仕えないか?」と甘言を弄するも、岩蔵は「二君に仕えざるは臣の道だ、御法通りに処置せられよ」と言って承諾せず。
 結局岩蔵は、有為の才を抱きながら、従容として刑場の露として消えたのであった。


 岩蔵は、江戸で育ち、性質勇敢機敏、同い年の輩位のものと喧嘩して、髪をさんざんにむしられ、後で友達等がその頭髪を梳いてやると、悔しがって涙をボロボロ流し、無言のまま痛いとも言わぬはもちろん、ついぞ腰を拔した事は無かった。学問武芸も勝気もの故、成績中々優良で同輩には引けを取らなかったという。


 また、兄民治は、永代揚屋入りとなって居たが、戊辰の戦いが起こり赦免され。民治は青龍木本慎吾隊の半隊頭となり、各所に転戦し、9月17日の一ノ堰の戦いで戦死。享年31歳。


<参考文献>
会津会会報 第十五号/神戸岩蔵附其兄民治が事より
旧会津藩士 神戸岩蔵綱衛慰霊祭 誌/神戸岩蔵慰霊祭実行委員会
「会津間者神戸岩蔵綱衛」/下関郷土誌
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