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伴幸右衛門
庄内藩は秋田戦争のイメージが強いですが、実は越後戦争にも出征しています。

そして、今回はその越後戦争に出征した藩士の一人『伴幸右衛門』の話。

酒井玄蕃(吉之丞)の義兄、中村七郎右衛門が銃兵四個小隊を率いて5/30鶴城を出発。その四個小隊の輜重長として伴幸右衛門(会計方130石)は出兵。

素晴らしい人格者だったようで、中村四個小隊の隊士阿部平蔵は後に以下の様に語っている。


『戦闘隊に兵食を実際に届けるのは徴用した郷夫の役目であるのに、危急の際は伴様自身が運搬を手伝うなど、真心を尽くす事格別で、誰からも心服されていた。陣中で重い病気にかかった時、宿の主人が気の毒がって絹布の布団を勧めたが、「戦士の危険も冒さぬ自分一人、そんな夜具で寝るわけにはいかぬ。志は忝いが、もうお借りしたも同じだから」と、いくらすすめても辞退した。「伴様に限らず、庄内の御人数の謹慎なのには、他藩と同じ世の人とは思われません」と、宿の主人は感に堪えて述懐した。お陰で自分のような兵士も、どの宿でも大切に扱われ、仕合せであった』と。

伴幸右衛門は、次第に病が重くなり、9/11福島で陣没したのである。

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