鳥羽伏見の戦いで破れた後、江戸に戻った会津藩士等に対し、江戸退去命令が下され、慶応4年2月会津藩主松平容保が会津へ帰国した後藩士達も一部を残して帰国した。
(2月中旬会津藩軍事方より越後諸藩に藩兵を出張させる旨の回状を送っており、それに対し2月17日総督府より越後諸藩に会津藩士の通行を禁じる触れを出している)
同3月23日仙台入りした奥羽鎮撫使九条総督等は仙台藩に会津討伐を命じる。また総督府は4月6日秋田藩へ庄内藩討伐を命じ、津軽藩には秋田藩への応援を命じている。しかし、新政府軍に追従的であった秋田藩ですら庄内藩討伐を疑問視する声があがるほどに、奥羽諸藩内で、会津藩・庄内藩討伐は、薩長の私怨であるとの疑惑が大きかった。また、戦となれば農民の負担となる為、どの藩としても戦は避けたかった。
そんな中、米沢藩は、元禄時代に嫡子不在の為、お家断絶になるところを、会津藩主保科正之に助けられた恩を返すときとばかりに、救会の手を差し伸べる。そして、仙台藩でも鎮撫使としてやってきた世良達の横暴さに、堪り兼ね、また会津へ同情的であった為、会津討伐の準備を行なうのと平行して会津へ降伏の使者などを送っていた。
3月25日米沢藩士木滑要人と仙台藩士玉虫左大夫、若生文十郎が会津にて救会の会談を行なう。
会津藩は4月9日、列藩同盟に先駆けて会津と庄内において会庄同盟が締結される。(庄内藩大野与一左エ門が会津入りし、次いで菅秀三郎・本多安之助も来て、藩主の密命を伝えて『当に先ず貴藩と締盟し、存亡を共にせん。然る後、米沢・仙台を勧説して、奥羽列藩の同盟を成し、速やかに兵を江戸に出し、大城を以て軍議本営となし、兇徒を掃い、君側を清めんとす。果たして斯くの如くせば、唾手して事成るべし』)
また、米沢藩・仙台藩の使者が会津に訪れ、救会を伝え、4月10日仙台・米沢・庄内・会津の4国同盟が締結。
4月16日には二本松藩よりの使者丹羽新十郎等も会津へ入り会談する。18日に米沢・仙台・二本松の使者と梶原・内藤・一瀬等が会談する。21日米沢藩の使者と梶原・山川等との会談で、藩主親子の謹慎と削封の結論を出す。
閏4月1日七ヶ宿での仙台藩・米沢藩と梶原平馬等で会談が行なわれ、最終的な降伏条件の打ち合わせが行なわれ4日会津藩よりの恭順降伏の嘆願を受けて、仙台・米沢両藩、総督府へ追討中止を申し出る。この頃、仙台・米沢両藩より、奥羽諸藩へ会津藩の嘆願書の取り扱いについて協議したい旨を送っている。これを受けて18日には、棚倉・中村・三春・磐城平・泉の諸藩も戦闘中止を申し入れる。
閏4月12日白石にて奥羽諸藩の列藩会議が行なわれ、これによって27藩による「救会同盟」が結成された。
しかし、九条総督によって嘆願書は、一旦受理されるも、世良から大山への書簡が福島藩士から仙台藩士姉歯武之進や瀬上主膳等の手に渡り、に「奥羽皆敵」「弱藩2藩」という文面により怒りをかい、世良は殺害され、また奥羽より薩長藩士を排除するという形で、対薩長という形で同盟が変化していった。
また、5月3日には、岩村との小千谷での会談で決裂した長岡藩が北越の近隣諸藩を率いて同盟に加入。これで「奥羽悦列藩同盟」が成立、計31藩での同盟となった。6月には孝明天皇の弟輪王寺宮を同盟盟主に向かえる。
しかし、九条総督を仙台藩が佐賀藩士前山精一郎の策略により逃がしてしまい、九条総督が秋田へ行き、秋田藩へ薩摩藩士で鎮撫使参謀大山が態度を明確にするよう迫り、急進派の砲術所の志士達をけしかけ、7月7日仙台藩よりの使者を殺害させ、秋田藩を同盟より脱退させるように仕向けた。
続いて、弘前藩が脱退、ついで三春藩・新発田藩が裏切るなど、内部分裂によって同盟は瓦解していく。 |