奥羽悦列藩同盟
Ouuetureppanndoumei

 
☆同盟諸藩名簿☆

 

藩名 現地名 藩主名 石高 席次 戦後石高
■会津藩 福島県会津若松市 松平容保 28万石 溜間詰 3万石
庄内藩 山形県鶴岡市 酒井忠篤 16万7千石 溜間格 12万石
★松山藩 山形県抱海郡松山町 酒井忠良 2万5千石 帝鑑間詰 2万2千5百石
仙台藩 宮城県仙台市 伊達慶邦 62万5千石 大広間詰 28万石
米沢藩 山形県米沢市 上杉斉憲 18万石 大広間詰 14万石
盛岡藩 岩手県盛岡市 南部利剛 20万石 大広間詰 13万石
二本松藩 福島県二本松市 丹羽長国 10万1千石 大広間詰 5万石
守山藩 福島県郡山市 松平頼升 2万石 大広間詰 2万石
三春藩 福島県田村郡三春町 秋田映季 5万石 帝鑑間詰 5万石
棚倉藩 福島県東白川郡棚倉町 阿部正静 10万石 雁間詰 6万石
中村藩 福島県相馬市 相馬季胤 6万石 帝鑑間詰 6万石
福島藩 福島県福島市 板倉勝尚 3万石 雁間詰 2万8千石
磐城平藩 福島県いわき市 安藤信勇 3万石 雁間詰格 3万石
湯長谷藩 福島県いわき市 内藤政養 1万5千石 帝鑑間詰 1万4千石
泉藩 福島県いわき市 本多忠紀 2万石 帝鑑間詰 1万8千石
下手渡藩 福島県伊達郡月館町 立花種恭 1万石 柳間詰 1万石
上ノ山藩 山形県上山市 松平信庸 3万石 帝鑑間詰 2万7千石
山形藩 山形県山形市 水野忠弘 5万石 雁間詰 5万石
新庄藩 山形県新庄市 戸沢正実 6万8千石 帝鑑間詰 6万8千石
米沢新田藩 山形県米沢市 上杉勝道 1万石 柳間詰 1万石
天童藩 山形県天童市 織田信敏 2万石 柳間詰 1万8千石
久保田藩 秋田県秋田市 佐竹義堯 20万6千石 大広間詰 20万石6千石
亀田藩 秋田県由利郡岩城町 岩城隆邦 2万石 柳間詰 1万8千石
矢島藩 秋田県由利郡矢島町 生駒親敬 1万5千石 柳間詰 1万五千石
本庄藩 秋田県本荘市 六郷政鑑 2万石 柳間詰 3万石
一関藩 岩手県一関市 田村邦栄 3万石 柳間詰 2万7千石
弘前藩 青森県弘前市 津軽承昭 10万石 大広間詰 11万石
八戸藩 青森県八戸市 南部信順 2万石 大広間詰 1万9千石
松前藩 北海道松前郡松前町 松前徳広 3万石 柳間詰 5万石
長岡藩 新潟県長岡市 牧野忠訓 7万4千石 帝鑑間詰 2万4千石
村上藩 新潟県村上市村上本町 内藤信民 5万石 帝鑑間詰 6万石
新発田藩 新潟県新発田市 溝口直正 10万石 柳間詰 10万石
村松藩 新潟県中蒲原郡村松町 堀直賀 3万石 柳間詰 2万石
三根山藩 新潟県西蒲原郡巻町峰岡 牧野忠泰 1万1千 菊間詰 1万一千石
黒川藩 新潟県北蒲原郡黒川村 柳沢光邦 1万石 帝鑑間詰 1万石
■は同盟対象藩
★は支藩で本藩に同調(単独で同盟には加わっていない)

※石高、賞典、藩名などに関して諸説ある為、現段階では石高は『幕末維新三百藩〜』を参考とし、戊辰後の石高は『維新激動の〜』を参考としております。のちのち、正確なところが解りましたら、修正していきたいと思っております。

::参考文献::
『幕末維新三百藩総覧』新人物往来社
『維新激動の300藩』新人物往来社
『奥羽越列藩同盟』中公新書

 


-奥羽悦列藩同盟成立-
 鳥羽伏見の戦いで破れた後、江戸に戻った会津藩士等に対し、江戸退去命令が下され、慶応4年2月会津藩主松平容保が会津へ帰国した後藩士達も一部を残して帰国した。
(2月中旬会津藩軍事方より越後諸藩に藩兵を出張させる旨の回状を送っており、それに対し2月17日総督府より越後諸藩に会津藩士の通行を禁じる触れを出している)

 同3月23日仙台入りした奥羽鎮撫使九条総督等は仙台藩に会津討伐を命じる。また総督府は4月6日秋田藩へ庄内藩討伐を命じ、津軽藩には秋田藩への応援を命じている。しかし、新政府軍に追従的であった秋田藩ですら庄内藩討伐を疑問視する声があがるほどに、奥羽諸藩内で、会津藩・庄内藩討伐は、薩長の私怨であるとの疑惑が大きかった。また、戦となれば農民の負担となる為、どの藩としても戦は避けたかった。

 そんな中、米沢藩は、元禄時代に嫡子不在の為、お家断絶になるところを、会津藩主保科正之に助けられた恩を返すときとばかりに、救会の手を差し伸べる。そして、仙台藩でも鎮撫使としてやってきた世良達の横暴さに、堪り兼ね、また会津へ同情的であった為、会津討伐の準備を行なうのと平行して会津へ降伏の使者などを送っていた。
 3月25日米沢藩士木滑要人と仙台藩士玉虫左大夫、若生文十郎が会津にて救会の会談を行なう。

 会津藩は4月9日、列藩同盟に先駆けて会津と庄内において会庄同盟が締結される。(庄内藩大野与一左エ門が会津入りし、次いで菅秀三郎・本多安之助も来て、藩主の密命を伝えて『当に先ず貴藩と締盟し、存亡を共にせん。然る後、米沢・仙台を勧説して、奥羽列藩の同盟を成し、速やかに兵を江戸に出し、大城を以て軍議本営となし、兇徒を掃い、君側を清めんとす。果たして斯くの如くせば、唾手して事成るべし』)
 また、米沢藩・仙台藩の使者が会津に訪れ、救会を伝え、4月10日仙台・米沢・庄内・会津の4国同盟が締結。
 4月16日には二本松藩よりの使者丹羽新十郎等も会津へ入り会談する。18日に米沢・仙台・二本松の使者と梶原・内藤・一瀬等が会談する。21日米沢藩の使者と梶原・山川等との会談で、藩主親子の謹慎と削封の結論を出す。

 閏4月1日七ヶ宿での仙台藩・米沢藩と梶原平馬等で会談が行なわれ、最終的な降伏条件の打ち合わせが行なわれ4日会津藩よりの恭順降伏の嘆願を受けて、仙台・米沢両藩、総督府へ追討中止を申し出る。この頃、仙台・米沢両藩より、奥羽諸藩へ会津藩の嘆願書の取り扱いについて協議したい旨を送っている。これを受けて18日には、棚倉・中村・三春・磐城平・泉の諸藩も戦闘中止を申し入れる。
 閏4月12日白石にて奥羽諸藩の列藩会議が行なわれ、これによって27藩による「救会同盟」が結成された。

 しかし、九条総督によって嘆願書は、一旦受理されるも、世良から大山への書簡が福島藩士から仙台藩士姉歯武之進や瀬上主膳等の手に渡り、に「奥羽皆敵」「弱藩2藩」という文面により怒りをかい、世良は殺害され、また奥羽より薩長藩士を排除するという形で、対薩長という形で同盟が変化していった。

 また、5月3日には、岩村との小千谷での会談で決裂した長岡藩が北越の近隣諸藩を率いて同盟に加入。これで「奥羽悦列藩同盟」が成立、計31藩での同盟となった。6月には孝明天皇の弟輪王寺宮を同盟盟主に向かえる。

 しかし、九条総督を仙台藩が佐賀藩士前山精一郎の策略により逃がしてしまい、九条総督が秋田へ行き、秋田藩へ薩摩藩士で鎮撫使参謀大山が態度を明確にするよう迫り、急進派の砲術所の志士達をけしかけ、7月7日仙台藩よりの使者を殺害させ、秋田藩を同盟より脱退させるように仕向けた。
 続いて、弘前藩が脱退、ついで三春藩・新発田藩が裏切るなど、内部分裂によって同盟は瓦解していく。

 

::参考文献::
「會津戊辰戦史」:會津戊辰戦史編纂会
「奥羽越列藩同盟」:星亮一著
「松平容保公伝」:相田泰三著
「会津戊辰戦争日記」:菊地明編

 
-七ヶ宿会談-
 慶応4年4月29日に七ヶ宿の関宿で会津藩・仙台藩・米沢藩との会談が行なわれる。これによって、会津藩嘆願同盟成立に大きく前進した。

 会津藩:梶原平馬・伊東左大夫・山田貞助・河原善左衛門
      土屋宗太郎
 仙台藩:但木土佐・坂英力・真田喜平太
 米沢藩:木滑要人・片山仁一郎

 土佐曰く「貴藩の所謂謝罪嘆願は藩公の城外蟄居と謀主の首級を出すとに在るか」、
 平馬曰く「寡君の城外に謹慎するは當然の事なりと雖も、謀主の首級を出すは甚だ難しとする所なり、何となれば謀主たりし者は概ね伏見に戦没し、存する者は僅に一両輩に過ぎず、而して此等は皆精忠の輩なり、若し之を斬らば國中動揺を生ぜんも知るべからず、日夫れ伏見の戰は前将軍既に罪を一身に負ひ、謝罪嘆願して朝廷之を納る、弊藩の如きは其の罪巳に消滅せり、何ぞ征討せらるゝの理あらんや、故に謀主の首級を出すは甚だ難し」
 土佐曰く「此の如くなれば総督府に進達すること能はず、假令進達するも総督府は之を納れざるべし、貴藩之に處するの決心如何」
 平馬曰く「闔藩死を以て守らんのみ」
 土佐曰く「闔藩死を決して守ると、僅に一両輩の首級を以て國命に換ふると利害果して如何ぞや」
 喜平太曰く「若し謀主の首級を出すを欲せずんば速かに歸り軍備を修めよ、吾等諸君と旗鼓の間に相見えん、前将軍罪を一身に負へば貴藩公罪なしとは余が解せざる所なり、臣子の罪は乃ち君父の過なり、故に貴藩にしては君臣の義を正さば、伏見の一挙は前将軍の過にあらずして貴藩公の罪なりと訴ひ、又足下等にありては貴藩公の過にあらずして足下等の罪なりと訴ふるを至當とす」
 平馬黙考暫くにして曰く「誠に貴諭の如し、然れども謀主の首級を出すも私怨を霽らすに急な薩長の参謀は之を拒まざるか」
 喜平太曰く「誠意より発せずんば之を拒むべし真に恭順嘆願せば何ぞ納れざるの理あらんや某等之を保證せん」

 真田喜平太の言葉の裏には、沢副総督の「会津が降伏すれば、征討の必要なし」という言葉があった。 この会談により、降伏の条件は、藩主親子の城外謹慎、領地の削封・謀主の首級の3つとなった。

::参考文献::
『会津戊辰戦史』會津戊辰戦史編纂会

 

-白石列藩会議-
 出来ればどの藩も戦争は避けたいと思っていた所に、仙台藩・米沢藩の名で、会津藩の助命嘆願についての会議の参加への回覧が奥羽諸藩に周り、諸藩とも会津藩の恭順で戦争が避けられるのならばと、また小藩は新政府軍との間に挟まれてい立場に苦しんでいた事もあり、多くの藩が閏4月11日に白石で開催された列藩会議に集まり、会津・庄内救解同盟に参加した。

 奥羽は広大な為、遠方の藩は書状が届くのが遅れ会議への参加が遅れた中、14藩のみで会議は開催された。この会議では、会津藩より助命嘆願の依頼が有り、総督府へ連名で歎願書を差し出すので、異論無ければ、さっそく歎願斡旋に移りたい旨が伝えられ、仙台・米沢藩両藩の間で作成された歎願書を回覧、内容は

『此度 會津征討被仰付 各藩出兵巳ニ 仙臺先手勢及接戦候處 容保家来共降伏謝罪之義申出
仙臺国境陣門ニ於テ糺明相逐候處 伏見暴動ノ義ハ全ク異心等有之義ニハ無御座候へ共事皆倉卒ニ発シ奉驚天聽候段深ク恐入其節ノ先手隊長ハ別テ謹慎申付置奉待御沙汰如何様共處置仕候由ニ御座候畢竟容保兼テ示方不行屈之所致候段至極恐縮仕當時城外ニ於テ恭順謹慎相盡先非悔悟罷在家來共歎願書ヲ以テ申出降伏謝罪仕候上ハ幾重ニモ寛大之御処處置被成下至仁之聖恩奉感戴候様奉仰望候尤當時王政御一新之御場合ニモ被為在候ヘハ何分不被為動干戈人心ノ向背ヲモ深ク可被為有御汲量御時節ト奉存候勿論春夏之間ハ農時ノ甚急務トスル所ニ有之自然民命ノ大ニ所關係ニ御座候間是等ノ義共篤ト御諒察被成下今日之事ハ只ニ會津孤国ノミノ御處置ト不被為思召寛大之御沙汰被成下候ハ、實以奥羽御鎮撫之道赫然被為立候様偏ニ存込列藩衆議相盡シ奉懇願候尚又連名外ノ輩ハ駆付次第可申上候恐惶謹言』

 つまり、「奥羽列藩同盟」は初めからの対薩長の軍事同盟であった訳ではなく、出来れば戦争を避けたいという諸藩の願いによって結成されたものであった。

 ちなみにこの時の会議の出席は
『仙台藩』⇒但木土佐・坂英力・横田官平・玉虫左太夫
『米沢藩』⇒千坂・木滑・竹俣・中里丹下・大瀧新蔵・片山仁一郎
『盛岡藩』⇒野々村真澄・江幡五郎
『二本松藩』⇒丹羽一学・丹羽新十郎
『守山藩』⇒三浦平八郎・柳沼正介
『棚倉藩』⇒平田弾右衛門・梅村角兵衛
『中村藩』⇒相馬靱負・佐藤勘兵衛・志賀治右衛門
『三春藩』⇒大浦帯刀・小堤廣人
『福島藩』⇒池田權左衛門・高橋吉三郎
『上ノ山藩』⇒渡邊五郎左衛門・搏c武兵衛
『亀田藩』⇒大平伊織・吉田權蔵
『一関藩』⇒佐藤長太夫・森文之助
『黒羽藩』⇒三田稱平
『矢島藩』⇒椎川嘉藤太
『山形藩』⇒水野三郎右衛門・笹本藤馬

※遅れて到り署名せし列藩重役
『秋田藩』⇒戸村十太夫/『新庄藩』⇒舟生源右衛門/『平藩』⇒三田八郎/
『本庄藩』⇒六郷大学/『泉藩』⇒石井武右衛門/『湯長谷藩』⇒茂原肇/
『下手渡藩』⇒屋山内記/『上杉駿河守家来』江口俊蔵/『弘前藩』⇒山中兵部/
『八戸藩』⇒吉岡左膳

::参考文献::
『會津戊辰戦史』會津戊辰戦史編纂会
『戊辰戦争』中公新書