■会津藩と蝦夷地■

 
--蝦夷地地図--

文化5年の蝦夷地警備

■蝦夷地警備
 
ロシアの南下によって、しばしば脅かされてきた蝦夷地に対する対策の一つとして、文化4(1807)年5月に幕府は津軽・南部・秋田・庄内の4藩に蝦夷地防備の出兵を命じ、4藩では計3000名の兵を出した。

 更に幕府は翌5年には津軽・南部の2藩を残し、庄内・秋田の替わりに仙台藩・会津藩に出兵を命じた。
 仙台藩は国後・択捉・箱館を2000名で、会津藩は松前・宗谷・利尻・樺太を1500名で守備した。
 (会津藩の、この唐太出兵は幕府に内願したものとも云われる

 会津藩では、文化4年11月に蝦夷地警備を命じられ早速家老内藤源助信周を軍将に任じ、その下の御先手陣将に同じく家老北原采女光裕を置き5隊を派遣する事とし、翌文化5(1808)年正月9日には軍監丹羽織之丞と番頭日向三郎右衛門【唐太】、10日に番頭梶原平馬景保【利尻】、11日に陣将北原采女【唐太】、12日に軍将内藤源助信周【宗谷】、少し遅れて2月5日番頭三宅孫兵衛忠良【松前】が会津を出発。総勢1558名(人夫、駄馬等を含めると約5000名)
 往路は猪苗代→二本松→福島→仙台→盛岡→青森経由、三厩に着き、船待ちで一ヶ月かかり、松前に渡った。3月29日松前着、4月13日松前出発、17日宗谷着。更に梶原隊は約70日駐留後6月29日に宗谷を出発し翌閏6月1日利尻島に移陣した。

 会津藩の唐太駐留は106日間に及んだ。
 しかし、幸いにもロシア船は現れず、7月帰国命令が出される。
 文化5年7月7日、唐太に駐留していた会津藩士は6隻の船に分乗して楠渓を出港、松前に帰還しようとするも暴風雨に見舞われ遭難。
船団は散り散りになって漂流した。(1・祥瑞丸/組頭北原軍大夫・大岩鉄太郎・物頭白井織之進等計133名  2・天社丸/日向三郎右衛門・御目付有賀権左衛門・高木小十郎等計104名  3・正徳丸/陣将北原采女・大岩嘉蔵等計126名  4・観勢丸/組頭西川治左衛門等計93名  5・大黒丸/組頭田中鉄次郎・多賀谷左膳等計63名  6・幾吉丸/組頭篠田七郎兵衛等計86名)

 また、この遭難以外にも多くの病死者を出していて、多くは北方の風土病「水腫病」にかかり(便が渋り足の甲から浮腫を生じ、次第に腰に及んで水膨れとなる。顔もむくみ、腹が鼓のようにふくれ、苦痛が甚だしく、遂に死亡する)という病である。病死者は全部で51名にも及んだ。


■揉めた順番
 会津藩では四ヶ月前から軍事訓練を行い、蝦夷への出発も文化五年1月と決められた。
 そして、総大将の軍将となる家老内藤信周は本部となる宗谷や、同じく家老の北原采女は陣将として最前線樺太、更に番頭梶原平馬景保、同三宅孫兵衛、同日向三郎右衛門と各隊の派遣が決められ、総勢千六百余名であった。
 そんな中、藩士より不満が出たのである。
 それは、松前駐在の梶原隊と、宗谷詰めの日向隊で、松前は蝦夷唯一の幕府の役所もあり、都市として栄えて居たが、その為折角選ばれて蝦夷へ行くのに戦いの場となるはずの樺太ではなく、宗谷や松前等の後方支援では武士の面目が立たないというものであった。

 通常、会津藩は『四陣の制』を用いており、『四陣の制』では先鋒、左右翼、殿を一年交代で、順番に役目を果たすものであったが、この時は特別に先鋒の番頭隊の配置先をクジにて決定した為、本来三番手で松前駐在の三宅隊が、一番の最前線樺太行きを当てたものであったから、本来一番手、二番手になるハズであった梶原・日向隊の両隊から不満が出たのである。
 両隊の隊士は昼夜に渡って抗議行動を行い、騒ぎが大きくなり始め、幕府に知れれば藩の恥として、三宅隊をなだめすかしクジでの決定を取り消し、本来の陣備えとなり、両隊の面目は保たれたのであった。


<四陣の制>
    先鋒--- 陣将隊(一隊、約400名)
        L  番頭隊(一〜三番隊、各約400名)

    左右翼--陣将隊(一隊、約400名)
          L番頭隊(一〜三番隊、各約400名)

    中軍--- 藩主本陣(約1000名)
        L  輜重隊(約400名)

    殿----- 陣将隊(一隊、約400名)
        L  番頭隊(一〜二番隊、各400名)
        L 新番頭隊(一隊、約400名)
 
      御留守備(約500名)
      猪苗代御留守(約150名)

 一年目に先鋒についた軍は、二年目は殿、三年目は左右翼、四年目で一巡する。
 陣将は千石以上の家老で、番頭隊の番頭は八百石級、新番頭隊の新番頭は五百石級の者があてられた。




■安政6年の蝦夷地警備

 幕府は安政6年9月、松前藩より本来の松前藩の領土を除く蝦夷地全土を上知させ、奥羽強藩、仙台藩・会津藩・津軽藩・南部藩・庄内藩・秋田藩に分譲して与え、幕領を含めて警備に当たらせる。

 会津藩は東蝦夷地「ニシベツ」(現在の別海町西別地区)から西蝦夷地「サワキ」(現在の紋別郡雄武町沢木)に至るまでの「網走」を除く90里余(360Km)に及ぶ領地を賜り、警備にあたる事となり、品川台場の警備を免ぜられる。
 本営を「ニシベツ」(西別)に置き、分営を「シャリ」(斜里)「モンベツ」(紋別)に設けた。また、この度の蝦夷地警備中に京都守護職を命じられ、会津藩は蝦夷地の各所に兵舎を建てようとするものの、資金不足等により宿舎の建設は中断され、実現したものは僅か6棟に過ぎなかった。

 また、この警備期間中に若年寄となり、この蝦夷地へ陣将代として派遣されていた田中玄純が病の為、文久2年7月勇払(現・苫小牧)にて55歳で病没している。(墓は函館市高龍寺)
 
 京都で公用方として活躍した秋月悌次郎は、その活躍を嫉む一部の保守派の反感を買い、後ろ盾であった家老の横山主税が死亡してしまった為、斜里代官として蝦夷へ左遷され、再び上京する事となったのは慶応2年の12月であったが、既に時遅く、薩摩藩が長州と手を結んでした後の事で、秋月の人脈を持ってしても、どうにもする事もできなかったのである。

 <標津代官>
万延元年→文久2年一ノ瀬記一郎(雑賀孫六郎)
文久2年→慶応3年 南摩綱紀

 <斜里代官>
慶応元年→慶応2年秋月悌次郎

 <紋別代官>
慶応2年→慶応3年籾山省介(他に柴 守三がいる)




明治の北海道開拓と斗南藩
■開拓使と斗南藩
 戊辰戦争後の明治3年、下北と別に与えられたのが、北海道「後志国瀬棚」(現在の久遠郡せたな町)「太櫓」(現在の久遠郡せたな町北檜山区太櫓)「歌棄」(現在の寿都町歌棄町)の三郡と胆振国山越郡(現在の山越郡長万部町)の計四郡。漁業や林業面では魅力的な土地であったが、農業生産方面では斗南以上に期待薄な土地であった。

 しかしそれより早く明治2年兵部省の井上弥吉に引率され北海道移住会津人の第一陣がヤンシー号に乗って余市や小樽に入植した(最終的に北海道へ移住した会津人の戸数は約220戸)この頃、北海道は「開拓使」の支配下にあり、旧会津藩士たちは「兵部省」の支配下にあり、「開拓使」と「兵部省」とは犬猿の仲であった為、開拓使からの援助は期待出来なかった。
 更に明治3年春になると、政府では会津人に対する兵部省の支配権を一切剥奪し、移住者には「扶助等の一切を旧藩に仰ぐべし」と布達。しかし、内地では、旧会津藩士たちが斗南へ移動したのが明治3年の春から閏10月までで、移住すら完了しておらず、また完了していても、当時の斗南藩の財政状況では、北海道移住者にまで援助する事は不可能であった。また、兵部省と犬猿の仲であった開拓使からの援助も期待できず、北海道移住の会津人たちの先は真っ暗だった。
 ここで、北海道移住の会津人たちが頼ったのは「樺太開拓使」であった。樺太開拓使は樺太の警備と開拓の為、開拓使より分離独立した官庁である。(明治4年にはまたは開拓使に合併されている)樺太開拓使が樺太に移住する際に用意したヤンシー号に北海道移住の会津人たちは便乗させてもらって北海道へ移住しているので、樺太開拓使とは無縁ではなかった。小樽滞留の会津人たちは長い時間をかけて樺太転住について話し合い、明治4年正月宗川熊四郎を筆頭に、世帯主186名が連名で開拓使次官黒田清隆に、血判を押した御受書を提出する。
 会津人による樺太転住の請願は、まともな移住希望者が居なかった樺太開拓使にとっても願ってもない事で、明治4年春早々、小樽入舟町にあった開拓使小樽本陣で開拓使監事大山荘太郎と斗南小参事広沢安任らとの間で小樽滞留会津人の受け渡しが行なわれた。
 樺太側の受け入れ態勢が整うまでの間として、移住者たちは一時的に余市に移住させられる事となった。しかし、明治4年8月樺太開拓使は廃止となり、開拓使に合併された為、会津人たちは念願の開拓使の支配下に置かれる事となり、そのまま余市に落ち着く事になる。そして、会津人たちは開拓使から一日一人七合五勺の玄米と一ヶ月金二分を含め衣食住は勿論のこと、農具や種子に至るまで保障される事となった。
 彼等は開拓使から支給される玄米を出来るだけ切り詰め、凶作に備えて建築したばかりの積穀倉に納めたり、金に変えて生活必需品の購入にあてたりした。しかし、春にもなると、漁獲量が多すぎて野良猫さえも顧みなかった為に「猫またぎ」とも云われた鰊を食べ、また秋には余市川に一面を埋めるほどに登ってきた秋鮭を幾らでも食べられたので、一日に一度の食事にすら困っていた斗南藩に比べれば、食糧事情は良かった。(春には鰊は無料でいくらでも手に入り、秋には余市川を鎌で掻き回すと、いくらでも鮭が捕獲できたといわれる)この他、会津人たちは、斗南藩と同じく山菜を良く食した。フキノトウ・ニリンソウ・フクジュソウ・カタクリ等が春になると一斉に芽を出し、冬にビタミン不足から起こり、過去会津藩士の蝦夷地警備でも悩まされた水腫病の治療にも山菜が役に立った。山菜一つとっても斗南藩とは大きく違っていた。

 明治3年、斗南藩は斗南藩領となっている北海道4郡の農業生産性を調査し、明治3年中頃瀬棚・太櫓に五世帯を入植させたり、歌棄郡内には作開村を定めて入植地としたりした。続いて明治4年になると2月には山越郡小古津内に七世帯、長万部村に四世帯を入植。瀬棚・太櫓に続いて八世帯、歌棄郡に二十八世帯を入植させ開拓に当たらせた。明治4年8月にはこれら斗南藩領の会津人たちも開拓使の保護下に置かれる事となる。彼等会津人たちは開拓に意欲を湧かせ従事し、開拓使も彼等の努力を賞して再三救助の手を差し伸べている。入植者たちは開拓使への恩義を無にしないためにも努力を重ねるも、結果的には振るわかなった。

 明治12年頃、余市では以前に開拓使から配られ自宅付近の畑に植えていたリンゴの苗木が数個結実した。(しかし、余市より2年はやく、広沢の運動で誕生した青森県ではリンゴの結実をみていた)開拓使が廃止された明治15年にはリンゴ作りの基礎が出来上がり、明治17年ごろには、余市リンゴは会津人の間で完全に定着していたが、商品化の見通しが立って、彼等の生活に潤いを与えるようになるのは明治20年代に入ってからのことである。



■琴似屯田兵
 政府は北方警備と士族授産による開墾を目的に、明治8年以降大量の士族を募り屯田兵の制度を導入。
 明治8年5月、まず宮城・青森・酒田の三県士族198戸、965人を琴似(現在の札幌市)に入村させたのを始め、翌年より明治23年迄に2900戸(14000人)の士族が屯田兵として移住した。
 ここでいう「青森」というのは、会津藩より移住した斗南藩士の事で、明治8年5月に琴似に56戸が第一陣として入村、翌9年5月には斗南以外の旧会津藩士53戸が山鼻兵村に入村したのである。



■琴似村(明治8年5月入村)
遠藤登喜蔵 宮本三八郎 弓田代三郎 三沢 毅 井上悌二
佐藤一蔵 山田貞介 林源次郎 竹内清之助 岩田栄吾
佐藤只雄 柏谷 始 猪狩量三 我孫子倫彦 新国幸次郎
斉藤郡大輔 伊藤清司 小松孫八 岡林吉太 島倉庄八
相川清次 平石吉次 宮原隆太郎 長尾市四郎 花泉恒介
一瀬忠吾 阿妻太郎 西川佑一郎 武川綱之助 工藤八郎
県 左門 恒見幾五郎 赤井捨八 二瓶只四郎 大竹己代松
斉藤寅次郎 有瀬千代次郎 太田資忠 神指元太郎 山口伊佐吾
丹生谷友衛 栗原市次郎 村松貞之進 町野彦太郎 吉田幸太郎
永峯忠四郎 簗瀬 栄 笹原民弥 大熊忠之助 大関代次郎
大関雄孟 横山四平 中村家起 斉藤久米蔵 村上弥太郎
■山鼻兵村(明治9年5月入村)
鈴木元治 熊谷源七郎 栃木与作 千里藤太 太田源太郎
樋口孝麿 角猪三郎 田中豊治 合田忠義 大場小右衛門
矢村健蔵 内田孝之進 日向代吉 大嶋八郎 黒河内十太夫
伊東左膳 服部四郎 鈴木元五郎 竹田藤蔵 柳田 毅
吉川良吉 福田喜代治 笹内次郎 永峰松太郎 沢野豊助
好川喜代美 神田直之助 田中甚之丞 荒木進次郎 松本武弥
樋口八三郎 渥美直茂 鯨岡勝美 新妻冨太郎 小山銀次郎
村松勝冶 笹沼寅五郎 加藤安治 佐々木久米吉 市川勝三郎
横地源八 猪狩織之進 太田房吉 渡部勝太郎 福井重吉
大堀岩太郎 林源三郎 佐藤恒治 安藤粂之進 小桧山勝美
渡部松次郎 熊谷留五郎 佐々木留之助    




■瀬棚町(会津町)の開拓
 丹羽村と現在町を同じくする瀬棚町も、旧会津藩士によって成立した町で、日本海に添う小さな町で、近くに奥尻島があり、また海岸には奇岩「三本杉岩」もある風光明媚な町である。
 この町は、戦前までは「会津町」と称していて、海岸に面した目抜き道路の片側が会津町、道路を挟んで西会津町・南会津町と区画されていたが、戦後の地番変更により西会津は本町三区、南会津は本町五区と改変されてしまい、「会津」の地名は全て消滅してしまった。

 明治3年5月と翌4年5月に会津藩士達がこの瀬棚に移住。
 この時、藩士高橋新右衛門、山田繁蔵、森眞咲、松見八太郎、池沢小藤太、好川喜五右衛門、篠塚啓右衛門、吉田萩右衛門、小林清記、大野湊、長谷川一次郎、結城寅太郎の十二家族が移住し、同じく斉藤俊治は北海道開拓使の権少主典に任じられ、開拓使瀬棚出張所詰としてこれを統御し、移住者のうち高橋新右衛門、森眞咲の両名を移民取締として村政の基礎を作った。

 しかし、当時の瀬棚は寒村でまだまだ未開の地であり、セタナイ川に添う一帯の昼間でも薄暗いような土地であったといい、会津人達は小さな小屋を作って棲み始めたが、殆ど狐狸と同棲するような生活であったという。まだ耕地は開けず、僅かな漁獲で飢えを凌いだと言う。

 明治5年に戸籍法が制定されると、斉藤が主宰して戸籍編成に取り掛かり、会津人高橋新右衛門が戸長、同じく山田繁蔵が副戸長に任命されている。明治13年には瀬棚郡の戸数は127戸(人口661名)となり、この地方は明治三十年代より鰊の漁場として賑わったと言う。
 同じく5年には、斉藤は瀬棚に学校を開く努力を始め、その趣意に賛同した運上屋古畑房五郎の支配人桂為助らの努力で46円50銭が集まり、三本杉に学校を建て、十数名の子弟を収容する事が出来たという。


■瀬棚の若松開拓
 下で紹介する丹羽村と同じ北桧山町に属する「若松町」も、会津からの移住者によって成立した町である。
 丹羽村が瀬棚村⇒東瀬棚村⇒北桧山町と属したのに対し、若松は太櫓村に所属していて丹羽村とは別村であり、昭和34年の町村合併により同じ北桧山区となった。

 若松に会津人が入植したのは明治30年で、丹羽村より5年程遅い。
 明治29年7月
若松の高瀬喜左衛門外7名が「会津殖民組合」を設立し、太櫓地区の五百町歩の未開地貸下の許可を受けた。
 8名というのは、高橋喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吉、穴沢祐造の8名で、いずれも
当時の若松の錚々たる財界人、名士の集団で、これらの設立者は開拓資金を出した経済人で、もとより自ら移住したわけではなく「不在地主」となったのである。




丹羽村の開拓
■丹羽五郎という人物
 旧会津藩士で、あった丹羽五郎が瀬棚に拓いた村は、現在「丹羽村」と呼ばれている。
 丹羽五郎は、一千石を録する丹羽本家の分家である丹羽族の嫡男として生まれ、唯一の男子であった五郎は殊の外可愛がられて育てられた。しかし、五郎が12歳の時、京都守護職拝命中、本家の唯一の跡取りである丹羽寛次郎が京都黒谷にて病死、その為、宗家の隠居丹羽喜四郎より「五郎をして宗家を相続せしむべし」との厳達があり、族一家にとっては晴天の霹靂、唯一の男子を奪われた一家は夜を徹して悲嘆に暮れたといい、家を出る時は、あたかも「秘蔵の息子の葬式」のようであったという。こうして、
僅か12歳の丹羽五郎は一躍一千石丹羽家の主となった
 戊辰戦争の際、五郎はまだ16歳の若年であった為、藩主喜徳公に扈従して御使番を命じられ、白河口や大寺口の戦況視察をし帰城。実父族は、野尻代官として野尻にあったが、越後口の戦いで長岡城が落城し、長岡より遁れてきた会津兵と避難民が野尻に殺到、丹羽族は農民を諭して避難民の食料調達に奔走したが、中々思うように食料は集まらず飢餓状態は悪化、万策尽きた丹羽族は、身を殺して数千の将兵を救おうと決意し、8月7日遺書を認め自決。農民は代官自害を聞き、家を空にしてまで米穀を差し出したという。
 この悲報を聞いた五郎は、昼夜を問わず野尻に急行し、父の遺骸を駕籠に乗せ、夜を徹して博士峠を越え若松に着き大龍寺に葬ったという。

 戊辰後は東京にて謹慎、謹慎が解かれた後も、五郎は東京に残って学問を続けたいと望み、相馬直登の斡旋で、会津出身の幕臣で淀藩士になっていた増山家に寄寓し勉学を続ける。しかし、一千石を賜っていた丹羽家はドン底の生活を余儀なくされ、五郎は懇意の長州人三輪信吉の斡旋により、背に腹は変えられぬと羅卒となる。しかし、羅卒は当時「人の最も嫌悪、侮蔑する職業」と見られており、会津藩の家老まで勤めた名家の当主としては、プライドが許さず、名前を「田村五郎」と変名して羅卒となった。
 其の後、順調に出世を重ね、西南戦争にも出兵、そして明治19年頃、五郎は曽祖父丹羽能教の影響もあり(丹羽能教は、寛政二年に私財を投じて、新潟の打越と富永の住民を移住させ猪苗代を開拓させ、藩に祭田として献じたのである) 開拓を決意。



■丹羽村の開拓
 まず、
開拓資金を獲得する為、「いろは辞典」の出版を思いつき、職務の傍ら着手。明治21年1月『漢英対照いろは辞典』『和漢雅俗いろは辞典』の二冊を「高橋五郎」の名で出版。予約制で八千部を発売し相当の利益を上げた。

 明治22年7月札幌に出発した五郎は、当時の北海道長官永山武四郎に面会し来意を告げると「上川の師団用地と、某華族に予約した雨籠を除く外は、何れの地でも貸与しよう」と好意的であった。
 翌23年5月、上京していた永山武四郎を京橋に訪ねた五郎は、永山の随行であった浅羽理事官より『後志国瀬棚郡に「利別原野」という所がある。ここは土地肥沃で気候も上川よりはるかに温順だ。一度行って調べてはどうか』と言われ、再び同年7月、再度北海道入りし浅羽の言う「利別原野」の探索に入る。当時はまだ道の無い原始林で、丸木舟で利別川を遡る外奥地に入る手段が無い。しかし、手ごたえを感じた五郎は帰国した後、趣意書を提出、明治24年4月、再度北海道に渡り29日に正式に利別原野百八十万坪の貸与許可を得て帰京した。

 五郎は、「これまでの数々の殖民事業が失敗してきた原因は、士族又は無頼の遊民を移植した為である」として、曽祖父丹羽能教が創設し新潟より移住させた
猪苗代南土田村「打越・富永」の農民に目をつけ、五郎は同村の大関栄作に依頼し、同村より移住の農民を募集する事とした。
 その結果、12戸(49人)が加わる事となり、明治25年3月1日出発と決定、猪苗代から徒歩で本宮駅へ行き、ここから仙台まで汽車にのり、塩竈で一泊、翌日塩竈より郵船の定期便東京丸に乗船し、函館へ到着、そこから松前丸に乗船し19日瀬棚に到着した。
 そこからまず瀬棚の会津町に到着し、事比羅神社の建物を借受け、数日自炊生活を送り、21日会津町を出発。真駒内迄行き、更に道無き道を歩き、漸く15丁程歩いて貸付許可地域内に入った。その際、巨大な水松樹を発見、この大樹の下に数日間野宿をして、小屋掛と地所の割渡に着手したのである。同年10月の時点で二十余町歩を開拓、粟、稗、黍、馬鈴薯、玉蜀黍、蕎麦、論茄子、胡瓜、南瓜、及び煙草に至るまで充分の収穫を得たが麦の収穫が無かったが、種の不良であり、後日別の種苗店より購入した麦は問題なく収穫出来たという。

 そして、丹羽五郎は入植者の団結、敬神の心を養う為
小祠を祀り玉川神社と称した。
 路すら無かった利別原野に、まず道を作った。また、虫害(薮蚊、虻、ブヨ、蜂等)や、病気、水害であった。医者の居ない丹羽村では一家に病人が出ると大きな打撃であった。利別川や支流の目名川はまだ自然のままで護岸工事などはなく、豪雨が来ると忽ち川は氾濫し、多くの農作物が被害を蒙ったのである。

 また、利別川では鮭や鱒、岩魚は獲れるが、本州の鯉、鮒、鰌は棲んでいない。明治35年、五郎は会津若松に帰省
した折、鶴ヶ城の堀から鯰4匹、猪苗代湖より鮒20匹を買い求め、これを二個のバケツに入れてはるばる丹羽村まで持ち帰ろうとし、汽車の中では水をこぼさないよう細心の注意を払い、これを丹羽村の沼地に放して繁殖させようとした。更に明治39年札幌に行った際に軽川で獲ったという大鰌を見つけ買い求め、邸内の河川に放ち、更に大正3年小樽より鯉を求めて邸内の亀ヶ池に放した。其の甲斐あってか、大正末期には鰌や鮒が大いに繁殖し、村民の食膳に上るようになったが、鯰はその影を認めず、死滅してしまったものと思われた。


 更に、丹羽村の基本財産を造成し、部落の発展、部落民のアンドを企図するのを目的として、学校の経営、子弟の教育、神社の保護、公園の経営、道路の開削、通路の修繕、風致の保護、旧跡の保存、宝庫の設置、倉庫の建設、図書館の設立、貧困者の救済、老人の慰籍、部落の為に尽力した者への表彰等の
公共事業を行う為の「財団法人丹羽部落基本財団」を設立
 更に明治41年には
「丹羽村信用購買組合」を設立。また、養蚕を奨励し、灌漑工事にも着手

 また、明治29年に、
説教場を設け東本願寺派に属し、仮名として曽祖父の諱より「能教寺」と称した、しかし創立30年を経ても、未だ寺号公称も定まらず、正式に寺号公称が「能教寺」と称したのは、丹羽五郎が76歳で往生する7日前の事であった。

 明治25年12戸49人で出発した丹羽村は、同38年には87戸433人と10倍になり
更に同40年には199戸、1042人、同44年には207戸1126人と丹羽村の最盛期を迎えたのである。

**参考文献**
『会津史談第67号』会津史談会
『会津・斗南藩史』東洋書院
『会津人の書く戊辰戦争』宮崎十三八著
『松平容保公伝』相田泰三著
『シリーズ藩物語 会津藩』野口信一著
『丹羽村の誕生〜会津藩士丹羽五郎の生涯〜』高橋哲夫著