若年の頃、酒田の佐藤三弥記について学問と剣術を学んで大志を抱く。
天保13年22歳の時、江戸に上り碩儒東条一堂に入門。かたわら国学を修めて多くの勤皇志士と交わる。
安政元(1854)年関東、奥羽の海辺を回って蝦夷地に至り、地勢・海防の実態を調査して翌年から江戸で度々幕府に対する国防についての上書を起草、
その後は同地に在って近隣の子弟に漢籍を講じた。
慶応に入り沼津藩水野家に儒臣として仕官したが刺客に遭って深手を負い、治癒後同藩の藩主で幕府老中をつとめた水野忠誠の病死を機にに、
武州児玉郡に退いて私塾を開く。
慶応4(1868)年3月、庄内藩に帰参を許され酒田に帰り、戊辰戦争では松平甚三郎率いる一番大隊の探索方となって出陣。
新庄より秋田方面に進撃して追分村で捕われる。
隊長桂太郎の糾問に対し、天下の大勢と庄内藩の正当性を説き、庄内に人あるを知らしめたが、戦陣混乱の中敗退の官兵によって惨殺された。
享年48歳。酒田峯鷲院に埋葬。大曲近傍角間村船通寺に墓がある。
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