・・・出生
 天保3(1832)3.1〜明治36(1903)2.3 慶応4年当時37歳。
 悌三郎、丹川、君錫、桃林。

 庄内藩士池田吉之助(源兵衛)の二男として鶴岡に生れ、後に兄孝之助の養子となる。歌人池田玄斎の孫。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 幼少の時藩校致道館に学び、後に長じて同館の助教となる。

 戊辰戦争時には一番大隊付き諸隊往来使(大隊長の命令指示を小隊長や輜重長などに馬を飛ばして速やかに伝達するばかりでなく、状況に応じては友軍他藩の藩庁へ庄内藩を代表する外交使節として出張し談判もする重要な役柄であった)として出征。8月下旬には松平甚三郎大隊長の特命を帯び、盛岡へ急行し、角館挟撃作戦の遂行督促方を南部藩家老毛馬内九左衛門に申し入れしている。
また、横手城攻略後、仙台藩士が布団の表地で金五両を押し借りしたと商人から訴えがあり、池田は大隊長の許しを得て、仙台藩軍役人に談判し、その仙台藩軍史が『いささかでも代品を渡しているのだから強奪とはいえますまい』と言ったことに対し、池田は『魚の目玉で宝石を取ろうというのは、貪りではないか。先頃世良修蔵が奥羽の民害になることばかりほしいままにしたからこそ、奥羽同盟の儀もなったのだ、あれを咎めてこれを見逃すとはどういう訳か」と詰問。軍史は答えに窮し、後日池田の元に訪ねてきて「昨日の事は至極もっともでした。軍監に申し立て、兵を糾問の結果、罪状が明らかになりましたので、他への見せしめの為、郊外に引き出して処刑しました」と告げた。
・・・戊辰戦争後

 櫛引代官を経て酒田権少属を勤め、明治8(1875)年9月戸田務敏、黒谷謙次郎と共に鹿児島に赴いて西郷南洲の教えを受け翌9年荘内神社祠掌となる。

 特に漢学に秀で、晩年は酒田本間家の招きによって、酒田片町に移住、庸行家塾(本立学校)教師となって同家一族らに論語等漢籍を講じ、また酒田日枝神社の社司を勤めた。明治36年72歳にて没。酒田浄福寺に葬る。

 著書には「丹川遺稿」がある。

参考書籍:
『庄内人名辞典』 庄内人名辞典刊行会
『七星旗の征くところ』 坂本守正