明治3(1870)年家督を継いで、又兵衛より又兵と改める。
同11(1878)年11月事情により家督を長男一貞に譲って、同14(1881)年1月上京。
洋画の先駆者と呼ばれた高橋由一のもとで鉛筆画および油絵を習得した。
明治18(1885)年福島中学兼務の福島師範臨時教員として就職。のち免許を得て郡山中学で教鞭を取り、同29(1896)年愛媛県松山中学、次いで32年(1899)岡崎に移って愛知第二師範の教諭となる。
明治41(1908)年3月71歳で退職したが、この間長年教職にあって図画・習字・歴史を担当する傍ら考古学の研究に没頭した。
すなわち明治22(1889)年福島で古器物研究会を主宰。
翌23年には松森胤保、羽柴雄輔らが鶴岡に集まり奥羽人類学会を結成すると、多くの関係資料・参考図譜等を提供してその発展に寄与し、
東京牛込に閑居した。
愛知県で没し、遺言にて同地の大泉寺に葬られる。
享年75歳。
又兵収集にかかる多数の考古資料は後に一括して東京国立博物館の所蔵となる。
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