・・・出生
 慶応4(1868)年7月25日没。中老。
 庄内藩士石原蔵太の次男として生まれる。 幼名を順之助。(成知・重斎)
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 兄道之助が早世の為、嘉永元年家禄800石を継ぎ、同4年組頭となり、慶応2年(1866)中老に任じられた。
 翌3年12月幕府の密命を受け、江戸薩摩屋敷焼き討ちの指揮を執る。

 慶応4年戊辰戦争が起きると主将となって吹浦口に出陣する。
 6月には新潟で開かれた仙台・会津・米沢等奥羽越諸藩との重役会議に出席し、同地で欧州各国との銃器買い入れ交渉を終え、7月25日従者3人を従え駕籠で庄内へ帰る途中、江木と松ヶ崎(現在の新潟市内)に上陸した官軍に襲撃されて討死。 鶴岡安国寺に埋葬。
・・・戊辰戦争後

 同年12月、明治政府より叛逆首謀者届出方の命があり、庄内藩では倉右衛門を開戦責任者に指名して届け出た為家名断絶となる。
 倉右衛門には子が無く、のちに弟の隼馬(孝五郎)が嫡子となって酒井の姓を賜り、その家は再興された。

 昭和5(1930)年7月、倉右衛門死亡の地に地元民と庄内有志の手により殉難遺跡碑が建立された。

 

 

 

参考書籍:
『庄内人名辞典』 庄内人名辞典刊行会
『七星旗の征くところ』 坂本守正