▼石原 倉右衛門(いしはら くらえもん)▼
同年12月、明治政府より叛逆首謀者届出方の命があり、庄内藩では倉右衛門を開戦責任者に指名して届け出た為家名断絶となる。 倉右衛門には子が無く、のちに弟の隼馬(孝五郎)が嫡子となって酒井の姓を賜り、その家は再興された。 昭和5(1930)年7月、倉右衛門死亡の地に地元民と庄内有志の手により殉難遺跡碑が建立された。
参考書籍: 『庄内人名辞典』 庄内人名辞典刊行会 『七星旗の征くところ』 坂本守正