維新後の明治5(1872)年には松ヶ岡開墾に参加した。
打ち続く赤川の氾濫防止の為明治18(1885)年赤川筋水利土功会(管理者東田川郡長石井武雄)が設立されて、官民協力による内務省の河川改修工事(5ヵ年計画)が始められた時、工事掛中村正国のもとに選ばれて工事監督の任にあたる。施工半ばで内務省より計画変更による工事中断の方針が示されて官・民間に紛争が発生。直矢はこの間に介在して解決の為東奔西走した。工事は続行となり、三川橋下流を中心とする難工事は同22(1891)年6月22日に行われて、功により賞杯の賜与をうける。これより直矢は地元の費用負担等未解決諸問題の責任を痛感。事態収拾の為身を挺して心血を注ぎ、遂にこれを落着させて、遺書を認めて自刃した。
明治25(1892)年2月13日
享年44歳。鶴岡本住寺に埋葬。老養父母と4児を残す。
明治26(1893)年2月、赤川流域の人々は鶴岡大宝寺松原水神社境内の赤川修治告成碑の傍らに直矢の彰徳碑を建立、裏面にはその死を惜しんだ86人に及ぶ関係官民の名前が刻まれている。碑文と、入棺・棺蓋書・墓碑銘を書いたのは兄の松本十郎。記念祭祭文の執筆は酒井調良。
※「先考君不変御臨終書」の自殺顛末と遺書には、『<郡長に不正ノ件ヲ引受ケ>させられたので、<我カ良心ニ問>い、<決心不得已事ナリ>と、北向きに剣を伏せて死んだ事が解る。
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