明治3(1870)年11月旧藩主が練兵修行のため鹿児島に行くにあたり、修業者70人の一人に選ばれて同行し、練兵を学んで翌4年3月帰国。
明治5年2月21日、黒崎与助友信の一人娘滝(15)と結婚。同年には選ばれて致道館の最上級の舎生に進む。舎生となると校内に一室をもち、自由に研究が出来、また助教に代って教える事もあった。同年の学生発布に伴い翌6年致道館が廃校となった後は、家庭にあって学問・文にいよいよ精進すると共に、遠藤厚夫をはじめ長老先輩や同志の私邸における経史の研究会に出てますます研鑽につとめた。
明治5年から後田山開墾が始まるとこれに参加、開墾の仕事を旧藩公への報恩の道を信じるあまり、いやしくも業を怠る者があればその府不心得を責め、時には切腹させよとまで主張する生真面目さであったが、年余の激しい労働の結果胸を冒され、病を押しての山暮らしに倒れ、医師と隊長の命令で遂に静養のやむなきに至った。明治12年2月榊原十兵衛の後を襲って開墾隊長に挙用された。明治5年から7年に渡った農民一揆(天狗騒動・ワッパ騒動)には首脳部の命令通り一片の疑念も抱かず、一兵卒として鎮圧に出動した。明治8(1875)年北海道開拓使黒田清隆の将兵に応じて派遣された六隊の一員として参加し、札幌郊外の開拓にも挺身した。
かねてより西郷隆盛を敬慕しており、西南戦争が起こると応援を謀るも、妄動を許さぬ長老の説得にあい、挙藩応援の道が断たれたが、決死の覚悟で義軍参加の為、4月単身上京し横浜に至って機を窺ったが、警戒厳重の為意を果たさず帰国した。
明治12(1869)年夏、ドイツ留学から帰国の旧藩公の御相手として召されるや、その経史詩文の会には終始出席し、後には毛詩、書経等の講義を担当した。自宅で学習の傍ら、集まる子弟に素読、習字から経史詩文に至るまで教え、後進の育成につとめる。
また、雅楽についても父や二人の兄がこれを嗜んだので、研堂もまた笙、笛をよくし、父兄と合奏したこともあり、また絵画や篆刻も得意であった。
二十歳を過ぎる頃には詩稿や書簡の清書の他、書幅や藩公の墓碑の揮毫まで依頼される程で、酒井三兄弟や母もいずれも能書であったが、長兄了恒と温海温泉に遊んだ時に屏風に揮毫し、了恒は李白の詩を楷書で、弟は王昌齢の詩を草書で書いたという。明治19(1886)年10月10日来庄の日下部鳴鶴翁に親しく接し、その書論、実技大いに学ぶ処あり。ついに師事し、爾来書家として一家を成し、かつ門下生から幾多の俊秀を世に送り、庄内書道の隆昌時代を築いた。
明治22(1889)年士族の手により設立された金融会社済急社の三代目社長に就任、大正9(1920)年同社解散までその職にあった。明治27、8年から16年鶴岡町会議員となる。鹿児島旅行から帰国して程ない昭和3(1928)年1月7日突然脳出血で倒れ16日没。 享年77歳。 鶴岡の禅源寺に葬る。
辞世の詩に曰く
『七十七年 人 喜を唱う /
余は悲しむ 万事 天真に戻るを /
今宵は除夕 月弦の如し /
初夜 牝鶏しきりに 晨を報ず』
研堂は生涯旧藩主とその首脳陣に対する忠義をささげ、一片も疑わず、叔父や兄の叛逆と離脱の罪滅ぼしをするつもりであったようである。
(研堂は酒井右京が丁卯の大獄で切腹を命じられたのも藩主に対する叛逆と思い、兄調良が菅実秀等の独裁に反旗を翻し、後田山開墾から離れた事を離脱と指している)
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