・・・出生
 天保9(1838)年3月21日〜明治16(1883)年8月6日
 岩五郎、景明、謙一郎。

 庄内藩郡代俣野市郎右衛門直吉の長子。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 嘉永2(1849)年、家督を継いで番頭、文久2(1862)年寺社奉行、慶応元(1865)年、大砲組番頭に任じられる。

 慶応3(1867)年12月江戸薩摩藩邸の参謀をつとめ、翌4年戊辰戦争が起こると酒井玄蕃の輩下として清川応援、引き続き天童攻めに尽力。俣野は猛将で、つねに藩境の外に撃って出て禍根を断たなければ作戦全局の勝利は全うしえないと強硬に主張し、松平権十郎と意見が合わなかったが、玄蕃とともに出陣するや素志貫徹は此の時とばかりに強硬に天童攻めを主張し、ついに逡巡する酒井兵部をも説得し天童焼き討ちを敢行。権十郎はこれを越権行為をして咎め「すぐ引き揚げよ、さもなくば永の御暇を出す」との厳命を神戸善十郎を使者として通達する。7月の庄内軍出陣の際は、俣野は勇み足の不興を買ってか加えられず、晩期の9/6にようやく亀ヶ崎家中隊長となって13個小隊を率い吹浦口より長駆し、9/9神ヶ村に着陣し刈和野・境攻めに勇戦する。
 

 明治9(1876)年4月東京に上って福沢諭吉の門にはいり、更に板垣退助と交わって同11(1878)年内務省大警部に任ぜられる。
鹿児島の岩倉警視とともに琉球への使者をつとめて、翌12年仙台典獄に転じたが、同14(1881)年辞任。
 明治16年没。享年46歳。秋月院に葬られる。
・・・戊辰戦争後

 明治9(1876)年4月東京に上って福沢諭吉の門にはいり、更に板垣退助と交わって同11(1878)年内務省大警部に任ぜられる。
鹿児島の岩倉警視とともに琉球への使者をつとめて、翌12年仙台典獄に転じたが、同14(1881)年辞任。

 明治16年没。享年46歳。秋月院に葬られる。現在墓所は多磨霊園(5区1種16側)。

 



参考書籍:
『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会
『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社
『冬青』 冬青社 坂本守正編集
『異形の人〜厚司判官松本十郎伝』井黒弥太郎著
『七星旗の征くところ〜庄内藩戊辰の役』坂本守正著