降伏の後、俣野市郎右衛門や勝山権四郎等と共に旧藩主忠篤に扈従上京。同年12月故あって姓名を松本十郎に改める(明治2年2月頃忠篤より「松本十郎」の名を下されたとも<老の友>)、さらに京都に至り戦後処理に尽力し、黒田清隆等と戦後工作に奔走する。
明治2年8月黒田の推挙により開拓使に入って北海道開拓判官に任じられ、正五位に叙されて同地根室に赴任した。現地開拓の為山野を跋渉し原住民の信用を得て「アツシ判官」の異名をとり、同6(1873)年大判官に進む。翌7年黒田は開拓長官になったが、十郎はアイヌの人権擁護を主張してこれと意見合わず、同9(1876)年38歳の時、上川地方の巡視に出かけ、十勝石狩を巡り「石狩十勝両河紀行」を残している。この探検の最中に辞意を固め、戻ると7月15日付で辞表を東京に辞表を送り自身は脱走同然で鶴岡に帰り、新屋敷に隠棲して晴耕雨読の生活に入る。西南戦争が勃発すると十郎は庄内藩の蜂起を押さえる事に尽力。同年11月大督寺境内(のち常念寺に移転)に自費で戊辰戦争戦死者の招魂碑を建立した。酒井調良と親交があり、漢文に長じて庄内各地における多くの碑文の選者となる。
大正5(1916)年11月27日78歳で死去。鶴岡安国寺に葬られる。
著書に「空語集」145巻「根室藻汐草」他多数の著述を残した。
明治12年の「蒙御免朝野豪傑競」とう番付の前頭四枚目に「山形
木公(松)本十郎」が載っている(ちなみに福沢諭吉は十二枚目である)
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