・・・出生
 天保10(1839)年8月18年〜大正5(1916)年11月27日 78歳没。
 庄内藩士物頭戸田文之助(ハ蔵・號は子隠)の長子として鶴岡新屋敷町甲二番地(現在の鶴岡市若葉町15-15)に生まれる。
 旧名戸田ハ十郎、幼名を重松・諱を直温。
 弟に加藤直矢がいる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 幼少時病弱であった十郎は、最初学校に入れず専ら武技を習わせ、また川釣り、小鳥網など、さかんに山野を跋渉して身体を鍛えさせた。嘉永6年数え十五歳でようやく藩校致道館に入学する事を父に許される。文久3(1863)年一月舎生に進み、その前年9月に酒井吉之丞了恒が試舎生に進んでいた。
 この年父の健康を慮って、十郎が父と蝦夷地在勤となったが、当初学校の規則では許されなかったが、了恒が舎長遠藤厚夫に迫って「学校の規則、仮令背くべからずとも雖も、仰々学校の教は忠と孝とにあらずや。今其の父、宿痾ありて絶域の島に渡る。父子の情、何ぞ忍ぶべけんや。余断じて舎生を辞し父の病を看護すべし」と擁護した事により許された。(後に手記に「酒井吉之丞氏、余の友なり(友氏註:十郎少壮時の親友、酒井吉之丞、勝山重良、多田誠修、田中孝正、宮坂数衛の五氏なり)。三年の間、父君の看護を許さる。余、踊躍して父君の轎に従って北行す。」としているこれにより父に従い蝦夷地の庄内藩警備地区天塩、苫前等に在勤後、浜益に移る。この頃の蝦夷地支配総奉行の総理として赴任していたのは、了恒の父「酒井玄蕃了明」で、人格者であったようで、十郎は「奉行酒井玄蕃大夫、寛仁大度、能く衆を容れ、人々和親一家の如し。而して大夫、博学にして一篇の書経を暗記すと云う。故に余、大夫の閑暇を窺ひ、其の講義を聞き、故郷に帰るの思をなす」と敬服していた。慶応元年6月に3年の任期を満了し庄内に戻る。

 慶応3(1867)年転じて江戸市中取締りの任にあたる。「松本十郎伝」によると、『余、下谷の藩邸に住す。而して交替に神田藩邸の非常詰めにありて市中を巡邏す。大概夜警たり。当時吉原、千住、根津、板橋、新宿、品川、深川等皆遊女町なり。壮年の隊士一人も足を入るる者なし。斯る者は絶交せられたり。我が隊もっとも壮士の魁を以て論ぜんと欲するなれば、何人も顧みず、我意に触るるあれば罵倒せざるなし。(不法狼藉の者は斬り殺したり。十郎は切り捨ての名人なりき)」と。

 翌4年の戊辰戦争では、清川口の戦いの際には、清川に急行する途中地元農民に協力を依頼し、旗を持たせ山に登り官軍の裏に出て包囲したと見せかけ新政府軍を撃退させる。藩の命令で酒井調良と共に各地諸藩の動向を探り、のちに酒井玄蕃了恒の指揮する第二大隊の大隊幕僚として出征。また機事掛として仙台・南部にしばしば使いへもいく。仙台にいた十郎は軍務局に呼ばれ、庄内藩は秋田藩を討つべしとの命を受け伝達の為、第一・二大隊に伝える為舟形に行った際、玄蕃了恒が「兵糧が乏しいから大石田、寒河江方面で兵糧を手当てしてくれないか」と言われ、十郎が「輜重方がいるじゃないか」というと「皆老人でテキパキ事が運ばないので、君は親友じゃないか、友の誼で引き受けてくれないか」と言われると、十郎は「かしこまって候」と引受、大石田に急ぎ、夜を徹して寒河江に至ると舟形戦の砲声を聞き、急ぎ寒河江民政局で田辺儀兵衛に了恒の伝言を伝え、楯岡に急行し庄内軍の勝利を知り、夜を冒して舟形に付いて玄蕃と再会し酒肴を交わした。
 翌日の新庄戦では、了恒は昨日の礼に「今日は君の好きにして良い」というと十郎は大いに喜び、斥候となり勝利に貢献する。
 銀山攻めでは、寺崎嘉右衛門と共に、敵状・地形探索に出て「銀山攻め困難ならず」と報告、しかし地形や陣地の点で庄内軍の銀山攻めは完全なる失敗で、十郎は殿となって敵の追撃に備え引き揚げるうち夜も更け、道に迷わないように途中で天明を待って陣に戻るが、味方の中からは十郎の斥候失敗の責任を追及する声があがり、更に等の十郎が帰営を怠った為大問題となり、十郎も割腹をし責任を負う決心をしたが、了恒が十郎の心中を見抜き、「勝敗は軍の常なり、敢て之を怪むに足らんや。我が頼む所の藩は南部・津軽なり。津軽藩すでに同盟に背き、南部なほ両端を持して袖手観望す。卿、是より南部に赴いて之を督責し、兵を秋田に出さしめよ。而して秋田を挟んで之を攻めば、久保田城を陥す、何ぞ難しと為さんや」といい、十郎を逃がし一命を救ったのである。
 南部藩への使者を勤め、鶴岡の本営に帰営すると、その功を賞せられ、二人扶持を増して七人扶持となり、御使番席に列せられる。

・・・戊辰戦争後

  降伏の後、俣野市郎右衛門や勝山権四郎等と共に旧藩主忠篤に扈従上京。同年12月故あって姓名を松本十郎に改める(明治2年2月頃忠篤より「松本十郎」の名を下されたとも<老の友>)、さらに京都に至り戦後処理に尽力し、黒田清隆等と戦後工作に奔走する。

 明治2年8月黒田の推挙により開拓使に入って北海道開拓判官に任じられ、正五位に叙されて同地根室に赴任した。現地開拓の為山野を跋渉し原住民の信用を得て「アツシ判官」の異名をとり、同6(1873)年大判官に進む。翌7年黒田は開拓長官になったが、十郎はアイヌの人権擁護を主張してこれと意見合わず、同9(1876)年38歳の時、上川地方の巡視に出かけ、十勝石狩を巡り「石狩十勝両河紀行」を残している。この探検の最中に辞意を固め、戻ると7月15日付で辞表を東京に辞表を送り自身は脱走同然で鶴岡に帰り、新屋敷に隠棲して晴耕雨読の生活に入る。西南戦争が勃発すると十郎は庄内藩の蜂起を押さえる事に尽力。同年11月大督寺境内(のち常念寺に移転)に自費で戊辰戦争戦死者の招魂碑を建立した。酒井調良と親交があり、漢文に長じて庄内各地における多くの碑文の選者となる。

 大正5(1916)年11月27日78歳で死去。鶴岡安国寺に葬られる。

 著書に「空語集」145巻「根室藻汐草」他多数の著述を残した。
 明治12年の「蒙御免朝野豪傑競」とう番付の前頭四枚目に「山形 木公(松)本十郎」が載っている(ちなみに福沢諭吉は十二枚目である)



参考書籍:
『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会
『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社
『冬青』 冬青社 坂本守正編集
『異形の人〜厚司判官松本十郎伝』井黒弥太郎著
『七星旗の征くところ〜庄内藩戊辰の役』坂本守正著