・・・出生
 (嘉永元(1848)年〜慶応4(1868)年7月14日)
 150石大島七郎右衛門の子として生まれる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 戊辰戦争が起こり、酒井玄蕃率いる第二大隊の服部正蔵(26)率いる第三小隊の半隊長に任じられる。
 7/14の新庄攻めで服部正蔵隊は本隊の先鋒を命じられ、新庄城攻略の為出陣するが、福田外れの戦いにて被弾。手当ての甲斐なく死去。

 武助と酒井玄蕃は『結髪の友』(元服以来の友人)で、武助が被弾し「苦しき故殺してくれ」と訴え、伍長の阿部弥五助が武助の従者を探しだし介抱させているところに、玄蕃が来合せ、下馬して駆け寄ると、腹部に貫通銃創を受け、眼光が揺れ動いている。玄蕃が呼びかけると「余が事已んぬ矣。君、之を勤めよ。三軍の耳目、君に在り。余を以て問ふこと勿れ(私はもう駄目です。あなたは主将、全員の耳目皆あなたに注がれています。私に構わず、どうか行って下さい)」と言う、玄蕃が「丈夫は死中尚ほ生を求め、以て明主に報ゆるのみ。何ぞ早く死を以て為さん。請う君、之を忍べ(何を言うか。丈夫たるもの死中になお生を求めるという。主君に報ずるのにどうして死に急ぐのだ。しっかりしろ)」と言い、軍律に反して「医者を呼べ」と命じ、あふれる涙を堪える事が出来ないまま、やむを得ず後事を託し全軍の指揮を執り、戦いが終わってから見舞うと息はかすかにあるが、すでに呼んでも答えがなかった。

 玄蕃は、出陣中に『戊辰之乱北征二十絶』という二十首の漢詩を詠んでおり、その第六首に上記の様子を記しており、漢詩には

 『雙眼仰我膽尚存 黒貂血迸桃花痕 強収涕涙掃秋草 鼓角前頭不耐言』
(雙眼 我を仰いで膽尚ほ存す。 黒貂の軍衣より血は迸る桃花痕。 強いて涕涙を収めて秋草を掃ふ。 鼓角前頭言うに耐へず)
 --我を見る二つの眼にはをごころが、あふれていても、 黒ラシャの服からは血がほとばしる。 紅桃色に頬伝う 涙を拭い秋草のしとねに残し前を行く、
   太鼓を負うがこの想い言うすべもない--

 また、玄蕃の詩集『病中起草』にも『戦亡大嶋生を夢む』と題する詩二首を詠っている。

 『夢醒戎馬已三年 想像精霊思悄然 歩伐先登不回首 一朝化為戦場烟』
(夢醒むれば戎馬より已に三年。 精霊を想ひ像れば思ひ悄然たり。 歩して先登を伐り首を回さず。 一朝化して戦場の烟を為りしか)
 --夢から醒めてふと思う、早三年と。 御霊の姿蘇り、思えば胸がふさがれる。 振り向きもせずまっしぐらに真っ先かけて行ったのに、
   運命つたなく戦場の煙となって消えたのか--

 『繐帳懐君夢是非 幽魂夜月不招帰 如何愛々春風面 獨立残燈々火微』
(繐<うすぎぬ>の帳に君を懐ふ、夢は是か非か。 幽魂は夜の月に招かずして帰る。 如何ぞ 愛々として春は面を風ふき。 独り残燈を立つれば、燈火微かなり)
 --薄絹の帳に君を夢見たか見なかったのか。 月影に君の御霊は呼ばぬのにもう帰りゆく。 春風のなぜさわさわは我が頬を吹き渡るのか。
   残り火に立ち添い見れば灯は微々と瞬く--

 享年21歳。大昌寺に葬る。(墓石確認出来ず)

 

参考書籍:
『庄内人名辞典』 庄内人名辞典刊行会
『七星旗の征くところ』 坂本守正