・・・出生
 文化5(1808)年〜慶応2(1866)年11月14日。
 佑輔、鐙之助、安直、鶴陵。
 庄内藩士大山庄輔の長男として江戸で誕生。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 文政9(1826)年120石の家督を継いで藩主酒井忠器の近習に選ばれる。
 才気に富み社交に長じて天保2(1831)年供頭、忠器の信任きわめて厚く、同9(1838)年物頭より留守居役に転じ、以来次第に権勢を強めて、
その屋敷は大山御殿と称されるほどであったという。

 天保13(1842)年藩主忠器隠居し、長子忠発に代ると、庄太夫は加増を重ねて弘化2(1845)年録350石(うち役料100石)となる。
 しかし、勤皇派であった忠器と、佐幕派である忠発との間に対立が起こり、庄太夫は、ひそかに酒井右京、酒井奥之助、松本舎人らと共に、
【藩主『忠発』を廃嫡し、分家筋で幕府の旗本になっていた『忠明』を藩主に立てる】密謀を立てるが、それが発覚、忠明は忠発によって捕らえられる。 
 のち、忠発の次男忠恕を世子に迎え、土佐藩山内容堂の義理妹と娶わせるが、忠恕が病死。
 其の後を改革派の望む忠発の弟忠寛を養子として定め幕府の許可を得る。

嘉永3(1850)年用人罷免の上、元高250石のうち50石を剥奪され、同年庄内勝手に移される。
 文久元(1861)年大納戸を命じられたが、翌2年9月病気を理由に隠居し、養子春治(恒可)が200石の家督を相続した。

 その後も江戸の同士と頻繁に通じて公武合体の実現に奔走したが、慶応2(1866)年11月、第二次長州征伐の失敗により、
藩内に政策批判の出る事を恐れた菅実秀、松平権十郎等は庄太夫等、酒井右京・松平舎人等を逮捕(「丁卯の大獄」)。
 庄太夫は自宅に拘禁中厠で自刃する。
 死骸は塩漬けとなり、断罪を待って、翌3年9月11日茅場の刑場で腰切りの刑に処された。

 享年59歳。 鶴岡正覚寺に埋葬。

 大山家は断絶し、庄太夫の跡を継いだ春治は親族預け押込めとなる。

参考書籍:
『庄内人名辞典』 庄内人名辞典刊行会
『七星旗の征くところ』 坂本守正