▼酒井 市(さかい いち)▼
法号は「常照院俊誉心光大師」。大督寺に葬る。
▼酒井 右京(さかい うきょう)▼
▼酒井 奥之助(さかい おくのすけ)▼
▼酒井 了恒(さかい のりつね)▼
※詳細は別途「酒井了恒(玄蕃)」のページを参照下さい。
庄内藩降伏後も中老として藩政に参与し明治2(1869)年6/19学校御用掛となる。 同年7/22大泉藩権大参事となり、明治4(1871)年7/14廃藩置県に伴い大泉県権大参事となるが、 8/17大泉県権大参事を免じられ、明治政府に仕官、兵部省七等出仕に任ぜられたが、翌5(1872)年病の為辞任して療養する。 明治5(1872)年療養の為熱海で湯治。翌明治6(1873)年、療養の為9/19より10/9まで父了明と弟馨と共に温海に湯治。 明治7(1874)年1/9鹿児島で初めて西郷隆盛と会い、10/3には政府の密命を帯びて開拓幹事調所広丈らと共に清国に渡り内情を偵察、 12/4帰国して「直隷経略論」を纏め、開拓長官黒田清隆に提出した。 明治8(1875)年8月帰郷し、父と共に温海にて湯治。10/5この頃より肺病悪化、熱海に湯治。 明治9(1876)年2/5労咳の為35歳にて東京にて死去。墓は谷中霊園に有る。(遺髪塔が鶴岡大督寺に有り) 薩摩藩士で庄内征討軍参謀であった大山格之助は維新後に会った時「鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、 実は容貌かくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは」と言って驚いたという。
▼酒井 調良(さかい ちょうりょう)▼
大正15(1926)年10月23日に79歳で没。鶴岡大督寺に葬る。鶴岡公園に胸像がある。
▼志賀 清任(しが きよとう)▼
明治3年家督、禄二百二十石。大砲隊長に任じられ、5年4月新潟鎮台新発田分営に入営した。 明治8年江華島事件(※)が起こると、日本は日鮮修好条約という不平等条約を押し付ける為、翌9年黒田清隆全権以下の使節団を朝鮮に使わす。 この際、酒井了恒はこれへの随行を熱望しながら定員を理由に断られたが、了恒は諦めず食い下がり、自らの代わりに『一砲手ヲ採用』させ渡鮮させたのだが、その代わりとして使節団に随行したのが清任であった。 渡鮮の際の明治9年1月3日、酒井了恒は体調が優れず和歌を一首送り(※玄蕃詩歌のページを参照)、『我が病ヒ日ナラズシテ癒ユベシ。必ズ念トスル勿レ。今回大臣ノ随行限リアリテ果タサズ雖モ、開戦ノ日ニ至ラバ必ズ赴カン。是レ既ニ允許ヲ得ル所ナリ。再会ヲ雞林(朝鮮)ニ期ス』と続けた。この朝鮮行きの往復日記を記したのが『志賀清任日記』である。 清任は60日の航海を終え、明治9年3月6日夕方7時半品川上陸。湯島三組町の庄内御用屋敷へ急ぎ、夜10時着。見聞録を了恒に呈上しようと寓居を訪ねると真っ暗で応答も無く、勝山重良に尋ねて了恒が2月5日に死去した事を知り落胆し、1年近く報告書に着手する事すら出来ないでいた。谷中に了恒の墓が募金により建立されたが、清恒も一燈を献じ、建碑の法会にも参列した。明治9年12月清任は了恒の遺命ともいうべき渡鮮の報告書を書きあげた。 朝鮮から戻った後、開拓使雇として東京事務所(芝増上寺内)に勤め、明治11〜16年、札幌在勤、札幌県四等属・勧業課長心得を最後に明治16年末に辞職し鶴岡に帰郷。その後は、旧藩世子酒井忠恕未亡人瑛昌院につかえる。明治32(1899)年12月より済急社の監査役を勤め、在職中に没した。 大正4年没。73歳。鶴岡総穏寺に墓有り。酒田青原寺に埋葬。
▼白井 久井(しらい ひさい)▼
明治3(1870)年22歳の時に夫と死別し、後に朝晹学校が設立されると選ばれて裁縫教師となる。包容力ある開明思想の持ち主として知られ、婦人運動を興してこれを指導。明治21(1888)年11月藤生貞、今田政代、伊藤美代野、秋野よしらと鶴岡に庄内婦人会を結成する。代表幹事に就任。のち会長に推されて婦徳向上と社会事業の為に活躍した。この間、明治30(1897)年鶴岡高等女学校の開設とともに教員に迎えられたが、かたわら同37(1904)年には工女夜学会を設けて講師となり、同39(1906)年5月には庄内婦人会立鶴岡幼稚園の設立に尽力した。
大正元(1912)年9月10日に64歳で没。 鶴岡総穏寺に埋葬。
▼菅 実秀(すげ さねひで)▼
明治2年年大泉藩権大参事、明治3年中老となり家禄も千石に加増され、同年8月下院出仕、4年廃藩置県の施行により11月酒田県権参事に任じられ、初めて西郷隆盛と交わる。 明治5年松ヶ岡開墾事業を指導したが、同7年ワッパ騒動の責めで県政より退き、翌8年4月松平甚三郎等と共に鹿児島に赴き西郷隆盛に師事し、6月12日鹿児島を出発し7月4日鶴岡に帰る。 西南戦争が勃発し庄内の青年士族達が西郷応援の為の決起を叫ぶ中、菅は「今回の挙兵は西郷先生の真意から出たものであれば、必ず自分に連絡があるはずだ、しかるに一片の書信もないところから、これは先生の真意から出たものではなく、情誼の為鹿児島人土に一身を投げ出し、正道を踏んでこれを天下後世に示そうとしたものであろう。今庄内が自らの力も量らず、暴挙を企て犬死するのは、決して西郷先生の真意にそう所以ではない」と言って青年達を抑え動かなかった。(この時の県令三島通庸は、政府が庄内追討令を下そうとしているのを知り、庄内は決して暴挙を企てはしないとして、東京から帰県し、菅等から事情を聴取し、政府へ暴挙の状況なしと報告した為、鶴岡への出兵は中止となったのである) 明治11年、菅は酒田本間家・鶴岡風間家をはじめ富豪旧家に出仕を求め、庄内に第六十七国立銀行(昭和16年鶴岡銀行・風間銀行・出羽銀行との合併により現在の荘内銀行となる)を設立。他にも米倉庫・米穀取引所・蚕種・製糸・機業等酒井伯爵家関係の諸事業を起し、治政面でも陰の力となり強大な影響力を与えた。 明治23年4月、菅は同志と諮って「南洲翁遺訓」を発行し、その趣意の普及に努めた。 明治36年2月17日鶴岡の自宅にて死去。享年74歳。墓は鶴岡井岡寺墓地に有り。
参考書籍: 『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会 『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社 『酒井玄蕃の明治』坂本守正著・荘内人物史研究会 『冬青』坂本守正著・冬青社