・・・生涯
文政7(1824)年〜慶応元(1865)年8月30日 42歳
 田川郡渡前村大字大川渡(現藤島町)の農家、成沢又左衛門の孫女で、同村の医師大野貞哉(藩の侍医重田又玄の門人)の養女となり、酒井了明の妾となった人。
(ここでいう妾とは、愛人という意味ではなく、庄内藩では長男以外は、正妻を迎え「室」と称する事を許さず、御給人以下の家から娶って「妾」と呼ぶ決まりであった。了明は次  男であった為後には兄右京の隠居後その家督を継いだが妻を室を呼ぶ事が出来なかった為、「酒井家系譜」にも妾として記載されている)

 祖父成沢又左衛門は好学の人で寺小屋を設け村童を教育した。お市は幼い時から聡明美貌・能書で和歌を善くした。了明に嫁いでからは賢母・賢夫人の誉れ高く、三人の男子と娘をみな非凡の偉材として育て上げた。子には、鬼玄蕃として戊辰戦争で活躍した酒井玄蕃了恒、庄内柿の親酒井調良、書道家黒崎研堂、婦人運動家白井久井等がいる。

 法号は「常照院俊誉心光大師」。大督寺に葬る。

 

 

 

 

 

・・・出生
 文化4(1807)年1月29日〜慶応3(1867)年9月11日
 金剛若、元松、吉之丞、玄蕃、了繁、幽園、宏徳。

 庄内藩組頭酒井了安の次男として生まれ、文政3(1820)年3月家督を継いで1300石。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 天保9(1838)年中老、同15(1844)年1月家老となる。

 天保13(1842)年酒井忠発が庄内藩主となるが、しかし、勤皇派であった忠器と、佐幕派である忠発との間に対立が起こり、
右京は、ひそかに大山庄太夫、酒井奥之助、松本舎人らと共に、【藩主『忠発』を廃嫡し、分家筋で幕府の旗本になっていた『忠明』を藩主に立てる】密謀を立てるが、それが発覚、忠明は忠発によって捕らえられる。 
 のち、忠発の次男忠恕を世子に迎え、土佐藩山内容堂の義理妹と娶わせるが、忠恕が病死。

 其の後を改革派の望む忠発の弟忠寛を養子として定め幕府の許可を得る。
 
 嘉永元(1848)年家老罷免。
 その後も公武合体の実現に奔走したが、慶応2(1866)年11月、第二次長州征伐の失敗により、藩内に政策批判の出る事を恐れた
菅実秀、松平権十郎等は右京等、大山庄太夫・松平舎人等を逮捕(「丁卯の大獄」)。

 右京は閉門蟄居の上、慶応3(1867)年9月11日、鶴岡安国寺にて中村七郎右衛門の介錯により切腹。
 跡を継いだ弟了明も隠居させられる。
 享年61歳。

 鶴岡安国寺に葬られる。

 甥に戊辰戦争で『鬼玄蕃』の異名をとった酒井了恒(玄蕃)、庄内柿の祖酒井調良、書家黒崎研堂がいる。





 

 

・・・出生
 享和2(1802)年10月25日〜慶応元(1865)年3月28日
 直方、大卿、鳳陽。

 家老。庄内藩亀ヶ崎城城代酒井弾正の長子として生まれる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 文政13(1830)年2月、1200石の家督を継ぐ。
 天保13(1842)年、ひそかに大山庄太夫、酒井右京、松本舎人らと共に、【藩主『忠発』を廃嫡し、分家筋で幕府の旗本になっていた『忠明』を藩主に立てる】密謀を立てるが、それが発覚、忠明は忠発によって捕らえられる。 
 のち、忠発の次男忠恕を世子に迎え、土佐藩山内容堂の義理妹と娶わせるが、忠恕が病死。
 其の後を改革派の望む忠発の弟忠寛を養子として定め幕府の許可を得る。

 家老を経て弘化3(1846)年城代、同4(1847)年家老に復し、嘉永2(1849)年忠発が将軍の名代で上洛した時これに従い、天皇に拝謁する。

 その後も公武合体の実現に奔走したが、途中病の為に慶応元(1865)年3/28享年64歳にて没した。

 鶴岡大督寺に葬られる。




 

※詳細は別途「酒井了恒(玄蕃)」のページを参照下さい。 

・・・出生
天保13(1842)年11月12日〜明治9(1876)年2月5日 慶応4年当時27歳。
 庄内藩中老。家禄千石。
 了恒。
幼名を虎之進・吉弥・吉之丞・玄蕃・脩古堂・淳古堂。

 庄内藩家老酒井了明の長男として鶴岡に生まれる。母はお市の方。幼名を虎之進といい、代々玄蕃と称する。
 弟妹に庄内柿の祖酒井調良、書家黒崎研堂、婦人運動で活躍した白井久井がいる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 幼少の頃から読書・剣術を好み14歳で重正流馬術の常馭免許皆伝を受け、15歳の時長沼流兵学を軍師秋保政右衛門に学び頭角を現し、
寄合組の頭となるべき候補者10人の一人に選ばれる。軍後には詩・文章に長じて書をよくした。

 元治元年7月、禁門の変が起こると、吉弥は幕命を受け二の手として長州藩邸を包囲し接収。
 同年8/14大砲長に任じられる。
 同年10/17幕命により庄内藩の壮士を指揮して水戸浪士真田帆之助、岩名昌之助の二名を討取り、岩名を討取った際、自らも左膝を負傷し二針縫う。

 文久3年には庄内藩江戸市中取締の任に就き番頭を命じられる。

 翌年、「丁卯の大獄」にて祖父(実は叔父)酒井右京が連座し切腹、更に父了明が隠居した為、家督を継ぐ。

 慶応4(1868)年、戊辰戦争が起こり、清川口を攻められると、組持番頭として応援出征し、そのまま天童攻めに向かい落城させる。
 6月中老に任じられ、7/6第二大隊隊長として秋田攻めに参加、連戦連勝負け知らずで勇名を馳せて「鬼玄蕃」と称され、
角館攻めの途中、本国の危機を知り、9/22鶴岡に引き帰す。戦功により300石加増、禄1000石となる。
・・・戊辰戦争後

 庄内藩降伏後も中老として藩政に参与し明治2(1869)年6/19学校御用掛となる。
 同年7/22大泉藩権大参事となり、明治4(1871)年7/14廃藩置県に伴い大泉県権大参事となるが、
8/17大泉県権大参事を免じられ、明治政府に仕官、兵部省七等出仕に任ぜられたが、翌5(1872)年病の為辞任して療養する。


 明治5(1872)年療養の為熱海で湯治。翌明治6(1873)年、療養の為9/19より10/9まで父了明と弟馨と共に温海に湯治。

 明治7(1874)年1/9鹿児島で初めて西郷隆盛と会い、10/3には政府の密命を帯びて開拓幹事調所広丈らと共に清国に渡り内情を偵察、
12/4帰国して「直隷経略論」を纏め、開拓長官黒田清隆に提出した。

 明治8(1875)年8月帰郷し、父と共に温海にて湯治。10/5この頃より肺病悪化、熱海に湯治。

 明治9(1876)年2/5労咳の為35歳にて東京にて死去。墓は谷中霊園に有る。(遺髪塔が鶴岡大督寺に有り)
 
 薩摩藩士で庄内征討軍参謀であった大山格之助は維新後に会った時「鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、
実は容貌かくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは」と言って驚いたという。

 

←酒井玄蕃了恒




 

 

・・・出生
弘化5(1848)年2月7日〜大正15(1926)年10月23日 79歳。

庄内藩家老酒井了明の次男として鶴岡に生まれる。母はお市の方。幼名を右馬之助。竜馬・好菓。
兄に戊辰戦争で活躍した酒井玄蕃了恒、弟妹に書家黒崎研堂、婦人運動で活躍した白井久井がいる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 元治元(1864)年藩主酒井忠篤の近習となるが、慶応3(1867)年の丁卯の大獄に関連して職を辞し謹慎を命じられる。
翌慶応4(1868)年の戊辰戦争では新庄・秋田方面に出陣。松本十郎と共に各地諸藩の動向を探っていた。
銀山越えの戦いでは、兄玄蕃了恒の総督の元、引揚命会伝達者ともなった。

 9月20日、調良は収兵の命を報じて二番隊を求めて鶴ヶ岡から中田の宿に入ったとこで西軍に捕えられ、一旦院内に引かれ、秋田の獄に送られた。その時越前藩の大山重は長崎神闕隊長として滞陣していたおり、「賊はすでに退いて国境から去ったではないか。今一人くらいの賊兵を殺して何になる。勝敗の数は定まっているではないか」と詰るが秋田藩隊長はきかず、大山が調良を見たとき「これは尋常の男ではない」と思い、一旦処分を預かり、鶴岡に入ってから老公忠発婦人(越前藩主の姉)に拝謁したとき、調良の話を持ち出すと、二番大隊酒井玄蕃の弟と解り、急ぎ秋田へ連絡して釈放させ、一命を救われたのである。
・・・戊辰戦争後
 明治5(1872)年松ヶ岡開墾にに参加、その後屋敷内に桑を植えて養蚕に励み、同10(1877)年馬渡山に住んでさらに桑を栽培する。翌年7月兄了恒の子了敏が夭逝した為跡を受けて家督を相続。同12(1879)年自宅の畑で庄内で初めてのリンゴを栽培し、農芸の手腕が認められて山形県勧業世話係に任命された。翌13年製紙会社盛産社を興し横浜からの生糸輸出を始めて、同21(1888)年には荘内蚕糸業組合長に推される。

 明治26(1893)年西田川郡黒森村(現在の酒田市地内)に農場を経営、新品種核無(たねなし)柿(鶴岡の人鈴木重光が発見したものと伝えられる)を栽培してこれに成功「調良柿」とよばれたが、大正初め原凞博士により「平無核」(ひらたねなし)と命名され、以来盛んにこれを育苗し普及につとめた。(原木は今も残る)
 黒森に在住すること二十余年農場「好果園」をいとなんで地域農業の振興に専念し、この間たびたび上京して学理の応用を研究、平無核は大正14(1925)年摂政宮に献上の折「庄内柿」の名が用いられ、以来庄内名産となる。調良が広く全国に配布した柿の苗木は十万本に及んだという。

大正15(1926)年10月23日に79歳で没。鶴岡大督寺に葬る。鶴岡公園に胸像がある。

 


 

志賀 清任(しが きよとう)▼

 

・・・出生
 天保14(1843)年2月3日〜大正4(1915)3月25日 慶応4年当時26歳。
 金三郎。清任。

 鶴ヶ岡城下に惣右衛門清風の次男として鶴岡伊予小路(家中新町)に生まれる。父清風は戊辰時は近習頭取、用人席200石、能書で聞こえた人物。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 心影流剣術・荻野流砲術の皆伝を受ける。

 慶応4年戊辰8月3日、五人扶持をもって初出仕。西洋調練教授方被命、9月13日には大山農兵隊長として関川口防衛に出陣。16日雷峠の間道の押さえとして備えた。
・・・戊辰戦争後

 明治3年家督、禄二百二十石。大砲隊長に任じられ、5年4月新潟鎮台新発田分営に入営した。

 明治8年江華島事件(※)が起こると、日本は日鮮修好条約という不平等条約を押し付ける為、翌9年黒田清隆全権以下の使節団を朝鮮に使わす。
 この際、酒井了恒はこれへの随行を熱望しながら定員を理由に断られたが、了恒は諦めず食い下がり、自らの代わりに『一砲手ヲ採用』させ渡鮮させたのだが、その代わりとして使節団に随行したのが清任であった。

 渡鮮の際の明治9年1月3日、酒井了恒は体調が優れず和歌を一首送り(※玄蕃詩歌のページを参照)、『我が病ヒ日ナラズシテ癒ユベシ。必ズ念トスル勿レ。今回大臣ノ随行限リアリテ果タサズ雖モ、開戦ノ日ニ至ラバ必ズ赴カン。是レ既ニ允許ヲ得ル所ナリ。再会ヲ雞林(朝鮮)ニ期ス』と続けた。この朝鮮行きの往復日記を記したのが『志賀清任日記』である。

 清任は60日の航海を終え、明治9年3月6日夕方7時半品川上陸。湯島三組町の庄内御用屋敷へ急ぎ、夜10時着。見聞録を了恒に呈上しようと寓居を訪ねると真っ暗で応答も無く、勝山重良に尋ねて了恒が2月5日に死去した事を知り落胆し、1年近く報告書に着手する事すら出来ないでいた。谷中に了恒の墓が募金により建立されたが、清恒も一燈を献じ、建碑の法会にも参列した。明治9年12月清任は了恒の遺命ともいうべき渡鮮の報告書を書きあげた。

 朝鮮から戻った後、開拓使雇として東京事務所(芝増上寺内)に勤め、明治11〜16年、札幌在勤、札幌県四等属・勧業課長心得を最後に明治16年末に辞職し鶴岡に帰郷。その後は、旧藩世子酒井忠恕未亡人瑛昌院につかえる。明治32(1899)年12月より済急社の監査役を勤め、在職中に没した。

 大正4年没。73歳。鶴岡総穏寺に墓有り。酒田青原寺に埋葬。

 

 

 

・・・出生
 嘉永2(1849)年〜大正元(1912)年9月10日 64歳。

 庄内藩士酒井了明長女。兄に戊辰戦争で活躍した酒井玄蕃了恒、庄内柿の祖酒井調良、弟に書家黒崎研堂がいる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 白井重垂に嫁す。
・・・戊辰戦争後

 明治3(1870)年22歳の時に夫と死別し、後に朝晹学校が設立されると選ばれて裁縫教師となる。包容力ある開明思想の持ち主として知られ、婦人運動を興してこれを指導。明治21(1888)年11月藤生貞、今田政代、伊藤美代野、秋野よしらと鶴岡に庄内婦人会を結成する。代表幹事に就任。のち会長に推されて婦徳向上と社会事業の為に活躍した。この間、明治30(1897)年鶴岡高等女学校の開設とともに教員に迎えられたが、かたわら同37(1904)年には工女夜学会を設けて講師となり、同39(1906)年5月には庄内婦人会立鶴岡幼稚園の設立に尽力した。

 大正元(1912)年9月10日に64歳で没。 鶴岡総穏寺に埋葬。

 

 

 

 

・・・出生
(1830年1月8日〜1903年2月17日)慶応4年当時39歳。
庄内藩士。家禄百五十石⇒九百石。幼名を秀三郎。(善太右衛門・子発・臥牛)
庄内藩士菅実則を父として鶴岡元曲師町で生まれる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 嘉永2年、父病気の為20歳にて百五十石の家督を継ぎ、同6年世子酒井忠恕の近習となるも、安政5年忠恕急逝の為職を免じられる。
 文久元年、藩主忠寛の近習頭となり、同3年郡奉行、同年家老松平権十郎を補佐して江戸市中取締の任に就くが、小梅猟場密猟事件(※1)で自決を企て果さずして帰郷。
 慶応元年用人、同3年藩主忠篤の信任を得て側用人に進む。
 慶応4年戊辰戦争が起ると軍事係となり、松平権十郎と共に藩を指導、政治的敏腕を発揮して戦後処理に当る。
・・・戊辰戦争後

 明治2年年大泉藩権大参事、明治3年中老となり家禄も千石に加増され、同年8月下院出仕、4年廃藩置県の施行により11月酒田県権参事に任じられ、初めて西郷隆盛と交わる。
 明治5年松ヶ岡開墾事業を指導したが、同7年ワッパ騒動の責めで県政より退き、翌8年4月松平甚三郎等と共に鹿児島に赴き西郷隆盛に師事し、6月12日鹿児島を出発し7月4日鶴岡に帰る。
 西南戦争が勃発し庄内の青年士族達が西郷応援の為の決起を叫ぶ中、菅は「今回の挙兵は西郷先生の真意から出たものであれば、必ず自分に連絡があるはずだ、しかるに一片の書信もないところから、これは先生の真意から出たものではなく、情誼の為鹿児島人土に一身を投げ出し、正道を踏んでこれを天下後世に示そうとしたものであろう。今庄内が自らの力も量らず、暴挙を企て犬死するのは、決して西郷先生の真意にそう所以ではない」と言って青年達を抑え動かなかった。(この時の県令三島通庸は、政府が庄内追討令を下そうとしているのを知り、庄内は決して暴挙を企てはしないとして、東京から帰県し、菅等から事情を聴取し、政府へ暴挙の状況なしと報告した為、鶴岡への出兵は中止となったのである)
 明治11年、菅は酒田本間家・鶴岡風間家をはじめ富豪旧家に出仕を求め、庄内に第六十七国立銀行(昭和16年鶴岡銀行・風間銀行・出羽銀行との合併により現在の荘内銀行となる)を設立。他にも米倉庫・米穀取引所・蚕種・製糸・機業等酒井伯爵家関係の諸事業を起し、治政面でも陰の力となり強大な影響力を与えた。
 明治23年4月、菅は同志と諮って「南洲翁遺訓」を発行し、その趣意の普及に努めた。
 明治36年2月17日鶴岡の自宅にて死去。享年74歳。墓は鶴岡井岡寺墓地に有り。

 

(※1:小梅猟場密猟事件)
 慶応3年9月、江戸藩邸に出入りしていた千住に住む伊勢屋勘兵衛が千住におびただしい雁が集まっている事を話し、雁打ちを進めた事が発端。幕府ではお止場といって、江戸周辺の銃猟を禁止し、各村の名主に監視を命じていたが、幕末にはその禁令も大分弛んでいた。勘兵衛は千住の名主に話し、名主を通じて向島隅田村の名主にも「知らぬ振り」を頼むが、それを耳にした隅田村の名主の弟で侠客を気取る男が手下を率いて待ち構えていた所で菅と斬り合いとなり、菅は捕らえられ農家に監禁されてしまった。
 菅は藩に迷惑の掛かるのを恐れて自決の機を狙い、舌を噛んだが、歯が悪かった為噛みきれず、監視に見つかり前歯を数本抜き取られてしまい、出血多量の為意識を失う。
 松平権十郎は事の次第を知って、小栗上野介に穏便な解決を依頼し、小栗は菅の人物を知っていた為、幕府を説得し、菅は庄内藩に引き渡されたが、藩内では菅の出世や普段の素行を気に入らない藩菅派と菅を評価する少数派で議論が紛糾し、老公忠発は「国家多難の際に、あたら有為の人材を、常法にこだわって処置すべきではない」として過失を許され、職も従前のままとされたもの。

参考書籍:
『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会
『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社
『酒井玄蕃の明治』坂本守正著・荘内人物史研究会
『冬青』坂本守正著・冬青社