庄内藩降伏後も中老として藩政に参与し明治2(1869)年6/19学校御用掛となる。
同年7/22大泉藩権大参事となり、明治4(1871)年7/14廃藩置県に伴い大泉県権大参事となるが、
8/17大泉県権大参事を免じられ、明治政府に仕官、兵部省七等出仕に任ぜられたが、翌5(1872)年病の為辞任して療養する。
明治5(1872)年療養の為熱海で湯治。翌明治6(1873)年、療養の為9/19より10/9まで父了明と弟馨と共に温海に湯治。
明治7(1874)年1/9鹿児島で初めて西郷隆盛と会い、10/3には政府の密命を帯びて開拓幹事調所広丈らと共に清国に渡り内情を偵察、
12/4帰国して「直隷経略論」を纏め、開拓長官黒田清隆に提出した。
明治8(1875)年8月帰郷し、父と共に温海にて湯治。10/5この頃より肺病悪化、熱海に湯治。
明治9(1876)年2/5労咳の為35歳にて東京にて死去。墓は谷中霊園に有る。(遺髪塔が鶴岡大督寺に有り)
薩摩藩士で庄内征討軍参謀であった大山格之助は維新後に会った時「鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、
実は容貌かくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは」と言って驚いたという。
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