※詳細は別途「酒井了恒(玄蕃)」のページを参照下さい。 

・・・出生
天保13(1842)年11月12日〜明治9(1876)年2月5日 慶応4年当時27歳。
 庄内藩中老。家禄千石。
 了恒。
幼名を虎之進・吉弥・吉之丞・玄蕃・脩古堂・淳古堂。

 庄内藩家老酒井了明の長男として鶴岡に生まれる。母はお市の方。幼名を虎之進といい、代々玄蕃と称する。
 弟妹に庄内柿の祖酒井調良、書家黒崎研堂、婦人運動で活躍した白井久井がいる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 幼少の頃から読書・剣術を好み14歳で重正流馬術の常馭免許皆伝を受け、15歳の時長沼流兵学を軍師秋保政右衛門に学び頭角を現し、
寄合組の頭となるべき候補者10人の一人に選ばれる。軍後には詩・文章に長じて書をよくした。

 元治元年7月、禁門の変が起こると、吉弥は幕命を受け二の手として長州藩邸を包囲し接収。
 同年8/14大砲長に任じられる。
 同年10/17幕命により庄内藩の壮士を指揮して水戸浪士真田帆之助、岩名昌之助の二名を討取り、岩名を討取った際、自らも左膝を負傷し二針縫う。

 文久3年には庄内藩江戸市中取締の任に就き番頭を命じられる。

 翌年、「丁卯の大獄」にて祖父(実は叔父)酒井右京が連座し切腹、更に父了明が隠居した為、家督を継ぐ。

 慶応4(1868)年、戊辰戦争が起こり、清川口を攻められると、組持番頭として応援出征し、そのまま天童攻めに向かい落城させる。
 6月中老に任じられ、7/6第二大隊隊長として秋田攻めに参加、連戦連勝負け知らずで勇名を馳せて「鬼玄蕃」と称され、
角館攻めの途中、本国の危機を知り、9/22鶴岡に引き帰す。戦功により300石加増、禄1000石となる。
・・・戊辰戦争後

 庄内藩降伏後も中老として藩政に参与し明治2(1869)年6/19学校御用掛となる。
 同年7/22大泉藩権大参事となり、明治4(1871)年7/14廃藩置県に伴い大泉県権大参事となるが、
8/17大泉県権大参事を免じられ、明治政府に仕官、兵部省七等出仕に任ぜられたが、翌5(1872)年病の為辞任して療養する。


 明治5(1872)年療養の為熱海で湯治。翌明治6(1873)年、療養の為9/19より10/9まで父了明と弟馨と共に温海に湯治。

 明治7(1874)年1/9鹿児島で初めて西郷隆盛と会い、10/3には政府の密命を帯びて開拓幹事調所広丈らと共に清国に渡り内情を偵察、
12/4帰国して「直隷経略論」を纏め、開拓長官黒田清隆に提出した。

 明治8(1875)年8月帰郷し、父と共に温海にて湯治。10/5この頃より肺病悪化、熱海に湯治。

 明治9(1876)年2/5労咳の為35歳にて東京にて死去。墓は谷中霊園に有る。(遺髪塔が鶴岡大督寺に有り)
 
 薩摩藩士で庄内征討軍参謀であった大山格之助は維新後に会った時「鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、
実は容貌かくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは」と言って驚いたという。

 

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参考書籍:
『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会
『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社
『酒井玄蕃の明治』坂本守正著・荘内人物史研究会
『冬青』坂本守正著・冬青社