文政13(1830)年2月、1200石の家督を継ぐ。
天保13(1842)年、ひそかに大山庄太夫、酒井右京、松本舎人らと共に、【藩主『忠発』を廃嫡し、分家筋で幕府の旗本になっていた『忠明』を藩主に立てる】密謀を立てるが、それが発覚、忠明は忠発によって捕らえられる。
のち、忠発の次男忠恕を世子に迎え、土佐藩山内容堂の義理妹と娶わせるが、忠恕が病死。
其の後を改革派の望む忠発の弟忠寛を養子として定め幕府の許可を得る。
家老を経て弘化3(1846)年城代、同4(1847)年家老に復し、嘉永2(1849)年忠発が将軍の名代で上洛した時これに従い、天皇に拝謁する。
その後も公武合体の実現に奔走したが、途中病の為に慶応元(1865)年3/28享年64歳にて没した。
鶴岡大督寺に葬られる。 |