・・・出生
弘化5(1848)年2月7日〜大正15(1926)年10月23日 79歳。

庄内藩家老酒井了明の次男として鶴岡に生まれる。母はお市の方。幼名を右馬之助。竜馬・好菓。
兄に戊辰戦争で活躍した酒井玄蕃了恒、弟妹に書家黒崎研堂、婦人運動で活躍した白井久井がいる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 元治元(1864)年藩主酒井忠篤の近習となるが、慶応3(1867)年の丁卯の大獄に関連して職を辞し謹慎を命じられる。
翌慶応4(1868)年の戊辰戦争では新庄・秋田方面に出陣。松本十郎と共に各地諸藩の動向を探っていた。
銀山越えの戦いでは、兄玄蕃了恒の総督の元、引揚命会伝達者ともなった。

 9月20日、調良は収兵の命を報じて二番隊を求めて鶴ヶ岡から中田の宿に入ったとこで西軍に捕えられ、一旦院内に引かれ、秋田の獄に送られた。その時越前藩の大山重は長崎神闕隊長として滞陣していたおり、「賊はすでに退いて国境から去ったではないか。今一人くらいの賊兵を殺して何になる。勝敗の数は定まっているではないか」と詰るが秋田藩隊長はきかず、大山が調良を見たとき「これは尋常の男ではない」と思い、一旦処分を預かり、鶴岡に入ってから老公忠発婦人(越前藩主の姉)に拝謁したとき、調良の話を持ち出すと、二番大隊酒井玄蕃の弟と解り、急ぎ秋田へ連絡して釈放させ、一命を救われたのである。
・・・戊辰戦争後
 明治5(1872)年松ヶ岡開墾にに参加、その後屋敷内に桑を植えて養蚕に励み、同10(1877)年馬渡山に住んでさらに桑を栽培する。翌年7月兄了恒の子了敏が夭逝した為跡を受けて家督を相続。同12(1879)年自宅の畑で庄内で初めてのリンゴを栽培し、農芸の手腕が認められて山形県勧業世話係に任命された。翌13年製紙会社盛産社を興し横浜からの生糸輸出を始めて、同21(1888)年には荘内蚕糸業組合長に推される。

 明治26(1893)年西田川郡黒森村(現在の酒田市地内)に農場を経営、新品種核無(たねなし)柿(鶴岡の人鈴木重光が発見したものと伝えられる)を栽培してこれに成功「調良柿」とよばれたが、大正初め原凞博士により「平無核」(ひらたねなし)と命名され、以来盛んにこれを育苗し普及につとめた。(原木は今も残る)
 黒森に在住すること二十余年農場「好果園」をいとなんで地域農業の振興に専念し、この間たびたび上京して学理の応用を研究、平無核は大正14(1925)年摂政宮に献上の折「庄内柿」の名が用いられ、以来庄内名産となる。調良が広く全国に配布した柿の苗木は十万本に及んだという。

大正15(1926)年10月23日に79歳で没。鶴岡大督寺に葬る。鶴岡公園に胸像がある。

 

 

参考書籍:
『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会
『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社
『酒井玄蕃の明治』坂本守正著・荘内人物史研究会
『冬青』坂本守正著・冬青社