明治5(1872)年松ヶ岡開墾にに参加、その後屋敷内に桑を植えて養蚕に励み、同10(1877)年馬渡山に住んでさらに桑を栽培する。翌年7月兄了恒の子了敏が夭逝した為跡を受けて家督を相続。同12(1879)年自宅の畑で庄内で初めてのリンゴを栽培し、農芸の手腕が認められて山形県勧業世話係に任命された。翌13年製紙会社盛産社を興し横浜からの生糸輸出を始めて、同21(1888)年には荘内蚕糸業組合長に推される。
明治26(1893)年西田川郡黒森村(現在の酒田市地内)に農場を経営、新品種核無(たねなし)柿(鶴岡の人鈴木重光が発見したものと伝えられる)を栽培してこれに成功「調良柿」とよばれたが、大正初め原凞博士により「平無核」(ひらたねなし)と命名され、以来盛んにこれを育苗し普及につとめた。(原木は今も残る)
黒森に在住すること二十余年農場「好果園」をいとなんで地域農業の振興に専念し、この間たびたび上京して学理の応用を研究、平無核は大正14(1925)年摂政宮に献上の折「庄内柿」の名が用いられ、以来庄内名産となる。調良が広く全国に配布した柿の苗木は十万本に及んだという。
大正15(1926)年10月23日に79歳で没。鶴岡大督寺に葬る。鶴岡公園に胸像がある。
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