天保9(1838)年中老、同15(1844)年1月家老となる。
天保13(1842)年酒井忠発が庄内藩主となるが、しかし、勤皇派であった忠器と、佐幕派である忠発との間に対立が起こり、
右京は、ひそかに大山庄太夫、酒井奥之助、松本舎人らと共に、【藩主『忠発』を廃嫡し、分家筋で幕府の旗本になっていた『忠明』を藩主に立てる】密謀を立てるが、それが発覚、忠明は忠発によって捕らえられる。
のち、忠発の次男忠恕を世子に迎え、土佐藩山内容堂の義理妹と娶わせるが、忠恕が病死。
其の後を改革派の望む忠発の弟忠寛を養子として定め幕府の許可を得る。
嘉永元(1848)年家老罷免。
その後も公武合体の実現に奔走したが、慶応2(1866)年11月、第二次長州征伐の失敗により、藩内に政策批判の出る事を恐れた
菅実秀、松平権十郎等は右京等、大山庄太夫・松平舎人等を逮捕(「丁卯の大獄」)。
右京は閉門蟄居の上、慶応3(1867)年9月11日、鶴岡安国寺にて中村七郎右衛門の介錯により切腹。
跡を継いだ弟了明も隠居させられる。
享年61歳。
鶴岡安国寺に葬られる。
甥に戊辰戦争で『鬼玄蕃』の異名をとった酒井了恒(玄蕃)、庄内柿の祖酒井調良、書家黒崎研堂がいる。 |