明治3年家督、禄二百二十石。大砲隊長に任じられ、5年4月新潟鎮台新発田分営に入営した。
明治8年江華島事件(※)が起こると、日本は日鮮修好条約という不平等条約を押し付ける為、翌9年黒田清隆全権以下の使節団を朝鮮に使わす。
この際、酒井了恒はこれへの随行を熱望しながら定員を理由に断られたが、了恒は諦めず食い下がり、自らの代わりに『一砲手ヲ採用』させ渡鮮させたのだが、その代わりとして使節団に随行したのが清任であった。
渡鮮の際の明治9年1月3日、酒井了恒は体調が優れず和歌を一首送り(※玄蕃詩歌のページを参照)、『我が病ヒ日ナラズシテ癒ユベシ。必ズ念トスル勿レ。今回大臣ノ随行限リアリテ果タサズ雖モ、開戦ノ日ニ至ラバ必ズ赴カン。是レ既ニ允許ヲ得ル所ナリ。再会ヲ雞林(朝鮮)ニ期ス』と続けた。この朝鮮行きの往復日記を記したのが『志賀清任日記』である。
清任は60日の航海を終え、明治9年3月6日夕方7時半品川上陸。湯島三組町の庄内御用屋敷へ急ぎ、夜10時着。見聞録を了恒に呈上しようと寓居を訪ねると真っ暗で応答も無く、勝山重良に尋ねて了恒が2月5日に死去した事を知り落胆し、1年近く報告書に着手する事すら出来ないでいた。谷中に了恒の墓が募金により建立されたが、清恒も一燈を献じ、建碑の法会にも参列した。明治9年12月清任は了恒の遺命ともいうべき渡鮮の報告書を書きあげた。
朝鮮から戻った後、開拓使雇として東京事務所(芝増上寺内)に勤め、明治11〜16年、札幌在勤、札幌県四等属・勧業課長心得を最後に明治16年末に辞職し鶴岡に帰郷。その後は、旧藩世子酒井忠恕未亡人瑛昌院につかえる。明治32(1899)年12月より済急社の監査役を勤め、在職中に没した。
大正4年没。73歳。鶴岡総穏寺に墓有り。酒田青原寺に埋葬。
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