・・・出生
(1830年1月8日〜1903年2月17日)慶応4年当時39歳。
庄内藩士。家禄百五十石⇒九百石。幼名を秀三郎。(善太右衛門・子発・臥牛)
庄内藩士菅実則を父として鶴岡元曲師町で生まれる。
・・・戊辰戦争以前〜戊辰戦争
 嘉永2年、父病気の為20歳にて百五十石の家督を継ぎ、同6年世子酒井忠恕の近習となるも、安政5年忠恕急逝の為職を免じられる。
 文久元年、藩主忠寛の近習頭となり、同3年郡奉行、同年家老松平権十郎を補佐して江戸市中取締の任に就くが、小梅猟場密猟事件(※1)で自決を企て果さずして帰郷。
 慶応元年用人、同3年藩主忠篤の信任を得て側用人に進む。
 慶応4年戊辰戦争が起ると軍事係となり、松平権十郎と共に藩を指導、政治的敏腕を発揮して戦後処理に当る。
・・・戊辰戦争後

 明治2年年大泉藩権大参事、明治3年中老となり家禄も千石に加増され、同年8月下院出仕、4年廃藩置県の施行により11月酒田県権参事に任じられ、初めて西郷隆盛と交わる。
 明治5年松ヶ岡開墾事業を指導したが、同7年ワッパ騒動の責めで県政より退き、翌8年4月松平甚三郎等と共に鹿児島に赴き西郷隆盛に師事し、6月12日鹿児島を出発し7月4日鶴岡に帰る。
 西南戦争が勃発し庄内の青年士族達が西郷応援の為の決起を叫ぶ中、菅は「今回の挙兵は西郷先生の真意から出たものであれば、必ず自分に連絡があるはずだ、しかるに一片の書信もないところから、これは先生の真意から出たものではなく、情誼の為鹿児島人土に一身を投げ出し、正道を踏んでこれを天下後世に示そうとしたものであろう。今庄内が自らの力も量らず、暴挙を企て犬死するのは、決して西郷先生の真意にそう所以ではない」と言って青年達を抑え動かなかった。(この時の県令三島通庸は、政府が庄内追討令を下そうとしているのを知り、庄内は決して暴挙を企てはしないとして、東京から帰県し、菅等から事情を聴取し、政府へ暴挙の状況なしと報告した為、鶴岡への出兵は中止となったのである)
 明治11年、菅は酒田本間家・鶴岡風間家をはじめ富豪旧家に出仕を求め、庄内に第六十七国立銀行(昭和16年鶴岡銀行・風間銀行・出羽銀行との合併により現在の荘内銀行となる)を設立。他にも米倉庫・米穀取引所・蚕種・製糸・機業等酒井伯爵家関係の諸事業を起し、治政面でも陰の力となり強大な影響力を与えた。
 明治23年4月、菅は同志と諮って「南洲翁遺訓」を発行し、その趣意の普及に努めた。
 明治36年2月17日鶴岡の自宅にて死去。享年74歳。墓は鶴岡井岡寺墓地に有り。

 

(※1:小梅猟場密猟事件)
 慶応3年9月、江戸藩邸に出入りしていた千住に住む伊勢屋勘兵衛が千住におびただしい雁が集まっている事を話し、雁打ちを進めた事が発端。幕府ではお止場といって、江戸周辺の銃猟を禁止し、各村の名主に監視を命じていたが、幕末にはその禁令も大分弛んでいた。勘兵衛は千住の名主に話し、名主を通じて向島隅田村の名主にも「知らぬ振り」を頼むが、それを耳にした隅田村の名主の弟で侠客を気取る男が手下を率いて待ち構えていた所で菅と斬り合いとなり、菅は捕らえられ農家に監禁されてしまった。
 菅は藩に迷惑の掛かるのを恐れて自決の機を狙い、舌を噛んだが、歯が悪かった為噛みきれず、監視に見つかり前歯を数本抜き取られてしまい、出血多量の為意識を失う。
 松平権十郎は事の次第を知って、小栗上野介に穏便な解決を依頼し、小栗は菅の人物を知っていた為、幕府を説得し、菅は庄内藩に引き渡されたが、藩内では菅の出世や普段の素行を気に入らない藩菅派と菅を評価する少数派で議論が紛糾し、老公忠発は「国家多難の際に、あたら有為の人材を、常法にこだわって処置すべきではない」として過失を許され、職も従前のままとされたもの。

参考書籍:
『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会
『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社
『酒井玄蕃の明治』坂本守正著・荘内人物史研究会
『冬青』坂本守正著・冬青社