明治2年年大泉藩権大参事、明治3年中老となり家禄も千石に加増され、同年8月下院出仕、4年廃藩置県の施行により11月酒田県権参事に任じられ、初めて西郷隆盛と交わる。
明治5年松ヶ岡開墾事業を指導したが、同7年ワッパ騒動の責めで県政より退き、翌8年4月松平甚三郎等と共に鹿児島に赴き西郷隆盛に師事し、6月12日鹿児島を出発し7月4日鶴岡に帰る。
西南戦争が勃発し庄内の青年士族達が西郷応援の為の決起を叫ぶ中、菅は「今回の挙兵は西郷先生の真意から出たものであれば、必ず自分に連絡があるはずだ、しかるに一片の書信もないところから、これは先生の真意から出たものではなく、情誼の為鹿児島人土に一身を投げ出し、正道を踏んでこれを天下後世に示そうとしたものであろう。今庄内が自らの力も量らず、暴挙を企て犬死するのは、決して西郷先生の真意にそう所以ではない」と言って青年達を抑え動かなかった。(この時の県令三島通庸は、政府が庄内追討令を下そうとしているのを知り、庄内は決して暴挙を企てはしないとして、東京から帰県し、菅等から事情を聴取し、政府へ暴挙の状況なしと報告した為、鶴岡への出兵は中止となったのである)
明治11年、菅は酒田本間家・鶴岡風間家をはじめ富豪旧家に出仕を求め、庄内に第六十七国立銀行(昭和16年鶴岡銀行・風間銀行・出羽銀行との合併により現在の荘内銀行となる)を設立。他にも米倉庫・米穀取引所・蚕種・製糸・機業等酒井伯爵家関係の諸事業を起し、治政面でも陰の力となり強大な影響力を与えた。
明治23年4月、菅は同志と諮って「南洲翁遺訓」を発行し、その趣意の普及に努めた。
明治36年2月17日鶴岡の自宅にて死去。享年74歳。墓は鶴岡井岡寺墓地に有り。
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