■ 梶原平馬関連年表 

 

年号 年齢 出来事
天保10年 - - - 家老梶原平馬景保死去。
天保13年
(1842年)
0歳 不明 不明 内藤介右衛門信順の次男として悌彦(平馬)生まれる。
のち梶原健之助の養子となる。
嘉永2年
(1849年)
7歳 11月 18日 水野テイ、江戸新五番町に生まれる(父謙吉・母ウタ子の三女)
不明 不明 不明 山川兵衛の娘「二葉」を娶る。
安政6年
(1859年)
17歳 8月 23日 養父梶原健之助景範死去。
文久4年
(元治元年)
(1864年)
22歳 4月 1日 家老一ノ瀬要人と共に御側役として、見祢山の土津神社へ贈従三位の口宣を奉じる。
慶応元年
(1865年)
23歳 閏5月 不明 江戸常詰の若年寄に任じられる。(この頃平馬を名乗る)
慶応2年
(1866年)
24歳 3月 不明 家老に任じられる。
11月 16日 長男景清誕生。
慶応3年
(1867年)
25歳 1月 13日 会津藩士野口富蔵の紹介で、サーネスト・サトウに会い、サトウの紹介でバジリスク号を見学する。
5月 20日 平馬、上田学大輔・内藤介右衛門・諏訪伊助と共に、賀陽宮を伺候する。
6月 不明 内藤介右衛門と、容保の一時帰国の許可促進の為永井尚志を訪ね依頼する。
慶応4年
(1868年)
26歳 不明 不明 幕府と今後の対策を講じる為、江戸に下っている間に鳥羽伏見の戦いが勃発。
大阪へ戻ろうとするところへ敗戦の報が入り断念。
1月 4日 平馬、会津藩士安部井政治と堀藤左衛門へ前橋藩へ書状を持たせ、前橋藩の意向を聞く。
20日 徳川慶喜、鳥羽伏見の負傷者が収容されている三田会津藩下屋敷を見舞い、平馬出迎える。
2月 16日 平馬、横浜で鈴木多門等と小銃800挺、弾薬他を、幕府勘定奉行より金を借り入れ購入する。
18日 松平春嶽へ朝廷への歎願書を、田中・神保・梶原・上田・内藤・諏訪の連名で提出する。
3月 4日 平馬等30名が武器弾薬を購入し、国元へ送るため藩士の帰国には従わず江戸へ留まる。
のち武器弾薬を積んで海路新潟へ上陸し帰国。
4月 2日 梶原平馬等海路箱館を経由し、武器弾薬を積んで亜米利加船で新潟港に上陸。→帰国。
18日 米沢・二本松・仙台藩の使者と梶原平馬・内藤介右衛門・一瀬要人が謝罪降伏条件について会談する。
19日 米沢藩の使者と開城について梶原・内藤・山川・手代木・伊東等会談する。
21日 薩摩屋某宅にて米沢藩の使者と梶原・内藤・一瀬・山川・倉沢・山田等会談し、
容保父子の謹慎と削封の結論を得る。
22日 梶原・伊東・河原・土屋等、謝罪歎願の為米沢を訪れ、竹股・木滑・片山等と会談する。
同日米沢にいた上山藩士増戸武平の元を梶原訪れる。
23日 上山藩士増戸武平が梶原の宿を訪ね会談する。
29日 梶原平馬等、七ヶ宿関村で米沢藩木滑・仙台藩坂・但木・真田等と会談する。
閏4月 1日 先日に続き仙台・米沢の使者と会談する。
2日 石筵口で会津藩兵・仙台藩兵との交戦が起こり、これを知った昔村の梶原平馬は若松へ走る。
12日 西郷・梶原・一瀬の連名での哀訴状と共に奥羽列藩の歎願書を伊達慶邦・上杉斉憲が岩沼で九条総督に提出する。
15日  湯原の梶原平馬、仙台藩士横田官平の報告により、歎願書の提出を知り、米沢藩士千坂太郎左衛門と七ヶ宿で会談する。
 また、この日仙台藩老坂英力は梶原平馬に書簡を送り、新政府軍の白河城進攻を警告し、
藩兵の退去を進言している。
6月 4日 新潟の会津・米沢兵合同訓練を行ない、梶原平馬・スネル等が見学する。
6日 手代木直右衛門、梶原の同道を願い出て、米沢の色部長門と会談する。
同日、平馬、色部長門へ手紙をだす。
8日 会津藩士平尾豊之助、新潟へ到り、梶原・手代木と軍議、新発田藩討伐は反対され、
仙台・米沢も反対する。
9日 梶原、色部長門にスネルの消息を伝える。
7月 29日  新潟港が新政府軍に奪取された事により、同盟軍の供給路が絶たれ、
同港の開港が不可能となり、仙台藩奉行邸にて会議が開かれ、会津からは梶原・手代木・神尾・唐沢等が参加、米沢は色部・佐藤・黒井等、仙台は葦名・牧野・玉虫・富田・横尾・星等、二本松は奥田・山田、村上は近藤・平井・鈴木等。
8月 22日 母成峠の敗戦に梶原・萱野・佐川・神保・田中等が登城し、防禦の部署を定める。
26日 山川大蔵の彼岸獅子を模した入城後、防禦部署が更新され、梶原・本丸にて政務を、
内藤・三の丸、原田・西出丸、倉沢・二ノ丸、佐川・城外総督、山川軍事総督とした。
9月 19日 降意を土佐藩に伝える為の使者、鈴木為輔と川村三介の二人が任命され、容保に拝謁し、
梶原より酒を授ける。
22日 降伏の式が行なわれ、容保・藩士の歎願書に続いて、萱野・梶原・内藤・原田・山川・海老名・井深・田中・倉沢等連名の歎願書が提出された。(儀式の出席者は藩主父子、梶原・内藤・秋月等)
10月 17日 佐賀藩士徳久幸次郎、妙国寺に行き、容保・喜徳以下の東京護送を梶原へ通達する。
19日 萱野・梶原・内藤・山川等追従して容保父子会津を立つ。
11月 3日 江戸到着。
7日 容保・梶原・手代木・丸山・山田・馬島が因州因幡藩邸池田屋敷に、
喜徳・萱野・内藤・倉沢・井深・浦川等は久留米藩有馬屋敷に幽閉となる。
明治2年
(1869年)
27歳 5月 15日 梶原平馬・北原半介、久留米藩有馬邸へ赴き萱野の処分を伝える。
18日 梶原・山川は朝五ツに広尾の保科邸を訪れ、飯野藩中老大出・大目付玉置に前年来の厚意と、萱野に対する特別の厚意に謝辞を述べる。大出は朝旨を梶原等から萱野に伝えて欲しいと言い、梶原から萱野へ朝旨を伝え、容保・照媛の書状を渡す。
10月 17日 梶原平馬・山川大蔵が家臣一同に代わり、家名相続の願いを保科家に提出する。
不明 不明 不明 平馬、山川二葉と離婚し。のち水野テイと再婚する。
明治3年
(1870年)
28歳 3月 28日 原田対馬に代り若松方に任じられる。
3月 29日 会津へ帰国し滝沢村に住み、会津での藩士の斗南移住の準備に当たる。
5月 7日 梶原を荒川勝茂が訪ね、梶原は東京表が財政難の為思うように移住の準備が進まない事を話すと、荒川は知人間を駆け回り千両を調達し、梶原へ報告した。
29日 平馬、荒川勝茂を婦女付添道中並びに船中取締り御用職に抜擢した。
不明 不明 平馬、斗南藩移住し上市川村に住む。
明治4年 29歳 11月頃 不明 青森県庁に庶務課長として勤める。
明治5年 30歳 1月 8日 青森県庁庶務課長辞職。
明治7年 32歳 6月 5日 戊辰戦死七回忌に会津へ下向した容保公を11時若松を出発し、本郷の水野徳蔵宅(昼)迄、元家老簗瀬三左衛門・諏訪伊助と共に見送る。
明治8年 33歳 6月 2日 水野テイが東京麹街女学校の教員として教鞭を執る。
15日 水野テイが東京桜川女子の教員として教鞭を執る。
明治11年 36歳 1月 28日 水野テイ「慢性肺炎症」の為桜川女子を依願退職。(少なくともこの時期には東京にいたと思われる)
5月 2日 長女シツヱが誕生する。
不明 不明 不明 不明 長男・篤が誕生→夭逝。
明治14年 39歳 1月頃 不明 北海道函館へ渡る。
明治15年 40歳 2月 26日 函館から根室へ移住する。
12月 24日頃 義父(テイ実父)水野謙吉死去
明治16年頃 41歳前後 不明 不明 根室県庁庶務課に務める。
明治18年 43歳 6月 6日 根室にて三男(景清を長男とする)文雄(水野姓)が誕生。
明治22年 47歳 3月 23日 根室にて平馬(景雄)47歳で死去。(墓は根室の市営西浜町墓地
6月 26日 長男景清が梶原家を相続。
明治36年 11月 25日 水野文雄の参加する根室郷友会の会誌「北友」の壱號が発行される。
(その文雄の住所を見ると、小石川の山川二葉・景清宅に同居していたようである。)
明治41年 1月 29日 東京赤十字病院にて水野文雄死去。享年22歳。
昭和2年 2月 20日 根室にてテイ77歳にて死去。

::参考文献::
『会津戊辰戦争日記』新人物往来社
『同成社近現代史叢書(1)志士の行方』同成社
『逆風に生きた山川家の兄弟』角川書店
『会津史談昭和52年』会津史談会
『一外交官の見た明治維新』岩波文庫
『敗者の維新史』中公新書
『会津人の書く戊辰戦争』恒文社
『会津藩執政年表』飯沼関弥編
『会津藩に仕えた内藤一族』
『根室市博物館開設準備室紀要』
『戊辰埋葬始末』