■清川口の戦い■

-4/19第一次動員-
*清川口・・主将松平甚三郎以下、 番頭隊(二)、物頭隊(五)、 大砲方(一)、輜重等二百人。
       ⇒組持番頭 水野弥兵衛、寄合組番頭 加藤元右衛門、物頭 平林
甚五兵衛、同 野村織部、同 田中弥太郎
         物頭 服部正蔵、 同 朝比奈長十郎、使番兼目付 芳賀九郎右衛門、応接方兼参謀 石原友大夫、大砲方 犬塚泉士
         使役 荒賀又右衛門、同 常世勘三郎、代官兵糧方 林静蔵、他。

*大網口・・主将酒井兵部以下、番頭隊(二)、奇銃隊(一)、物頭隊(四)等約二百人。

*吹浦口・・主将石原倉右衛門以下、番頭隊(三)、物頭隊(七)、銃兵隊(三)、農兵隊(二)、大砲隊(一)、輜重等六百人。

*間道警備・・組持番頭 水野藤弥以下 二十五人。

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-清川口 警備編成-
 *腹巻岩・・・朝比奈長十郎隊
 *右山麓の河岸・・・平林甚五兵衛(三百石)隊
 *御殿林・・・野村織部(三百石)隊
 *右の東方区域・・・田中弥太郎(二百石)隊
 *対岸の八森山・・・服部正蔵(三百石)隊
 *御殿林前方立谷沢川付近・・・大砲三門 犬塚泉士指揮(三人扶持/江川太郎左衛門塾出身)

 

4月24日・・・清川口の戦い
 4月24日午前四時過ぎ、蕨取りの農婦が向山の腹巻岩の辺りに敵影(沢総督付薩州小隊一隊、長州中隊一隊、新庄藩兵)を発見し、馳せ帰って本営に危急を知らせる。
 諸隊、我先に駆け出すも、敵は庄内兵が持場に至る前に、山より下りて鬨の声をあげ銃撃す。
 水野弥兵衛、松平甚三郎等は御殿林に依って杉林を楯に烈しく撃ち合うが、敵は山を降り、立谷沢川を渡河し、清川村南方の山に登り、水野弥兵衛隊を挟撃、これを朝比奈隊、平林隊が敵の背後を衝き打払わんとした時、背後の山の上に、狩川等の農兵が機転を利かせ、幔幕を張り、幟を振り立てながら、鬨の声をあげ、庄内軍の援軍と思った敵兵は動揺して撤退する。

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【庄内戊辰戦争録】
 二十四日午前四時過ぎ、清川の農婦が南山へ蕨取りに登らんとして立ち出でたるに、向こうの山の腹巻岩の辺に黒装せし見慣れぬ者大勢ありしは、敵ならずやと馳せ帰って鳴り立れば皆支度して出んとす。
 本営には太鼓を鳴らして事急なるを示す。
 腹巻岩清川の東南最上川の西にて民家を去ること数町、諸隊之を聞いて我先にと先を争い思い思いに駆け出しぬ。味方持場に至らざるに、敵山上より押下ろして鯨波を作り銃撃する事烈し。(水野)弥兵衛隊真っ先に右手なる大堰の方に進み、続いて各隊争いて駆け出るに、(松平甚三郎)主将も進んで諸隊を励ます。先手の諸隊は多く左手なる杉林(御殿林とも云う)に據り関を作りて砲戦す
 大小砲の音、山に響き谷に答て夥し、且弾丸の杉の大樹に中れる音甚だしも云うべきなし。
 敵は追々山を下り、立谷沢川を歩いて渡り、清川村の上より南手の山に登り、鬨を上げて(庄内軍を)挟撃す。味方前後に敵を受ければ、(水野)弥兵衛隊にて斃れし者数人、敵この時、山上にて鬨を上げ太鼓を打ちて其の勢い烈しく、(朝比奈)長十郎、(平林)甚五兵衛、味方の背後(の敵)を撃攘はんとして諸方より南山に登り撃ち掛ければ、敵少し色め(動揺)く。此の時、背後の谷を隔てし山上に幕打張り、夥しい人数が鬨の声を上げたれば、敵はさては応援が押し来たりと大いに動揺せし所、諸方の味方が鬨の声を合わせて打ち立てれば、敵乱散して川の東に退く。 (服部)正蔵隊及び松山隊も
出で居たれば漕ぎ上る敵の船に撃ち掛けたり。後の山打たる幕は添川狩川の農夫等多数打寄って、鶴城の応援が来る如く計れるとそ。
 この日、互いに死傷あれども首級を獲るに及ばず、敵引足に連行盡し死骸ただ三人残れるのみ。

 <庄内藩戦死者>
 加賀山林蔵(250石)、白井大三郎(200石)、紀太小助(180石)、中島仙大夫(170石)、白石茂兵衛(90石)、安野五郎助、斉藤順太、束多弥太、鈴木悌助、上野頼吉、斉藤四郎治、渡部森大夫、清野幸兵衛

【新庄藩戊辰戦史】
 薩長百五六十人の一隊は道案内として古口より同行したり十人許りの新庄兵と共に最上川を下り、仙人堂向い土湯に上陸し、薩州兵は嶺上から、長州兵は下前の野道から共に三十丁の険阻を伝って二十四日未明、清川の手前腹巻岩に達した。庄内では之より先鎮撫使の下向ときき、形勢不穏と見て四月十九日以来家老松平甚三郎を総大将とし、士隊二組足軽隊五組その他の軍属を派遣して清川口を警戒させた。此晨清川の村民等雨戸を繰明けて川端を望み見るに黒装束なせる異様の者共土湯の方より陸続として腹巻岩の辺に寄せ来るを朝霧の中に発見して、さては敵兵襲来せりとて大騒ぎとなり、本営では太鼓を鳴らして急を報じ諸隊思い思いに馳せ出したが未だ持場に達せざるに、官兵は早や山上よう押下ろし、鯨波を上げて銃撃する事夥し、庄内兵これに応戦すれば官軍追々山を下り、中には折から雪代水の漲溢せる立谷沢川の早瀬を冒して対岸に泳ぎ上がるもの四五十人、敵兵辟易して敗色立ち漸く退いて御殿林を防守するのみなりしが、其の内付近の農兵等、南方の山に駆け上りて盛んに旗を振り、鬨の声を揚げ、夥しき人数にて、衆寡の勢敵すべくもあらざれば、官軍は潮合を計りて再び川を渡り腹巻岩の陣を撤して引揚げた。(中略)この役死傷薩州死一、傷七、長州死四、傷七、戦死人の墓は川向ひの大堰の岐れ目の辺にある。

 

清川口の戦いの援軍として派遣された人員
◎此日遊軍として晝後より鶴城を出発
  家老 石原平右衛門、寄合組番頭 白井総六郎、新徴組取扱頭 林茂助、同取締役 和田東蔵、奇銃隊頭 安藤定右衛門、
  集合隊頭 北楯小八、同 黒崎與助、持筒頭 土屋新三郎
◎同日応援として晝前鶴城を出発
  組持番頭 酒井吉之丞、新整隊頭 俣野市郎右衛門、銃隊頭 中村七郎右衛門、銃兵指図役 山田四郎右衛門、 同並 関口正右衛門、
  銃兵指図役 安信藤蔵、同並 杉山大八、 同指図役 中村健次郎、同並 中村陽之助、同 指図役 相良文八郎、同並 水野友五郎

 

清川口の戦いの後〜天童戦争
 (4/19・・・家老 酒井兵部は手勢二百名を率いて大網口を固め、湯殿山を本陣とした)
 4/26・・・藩命により藩境を越え、村山盆地に出る白岩まで進出したが、守りにくい地形の為翌日7km退いて海味に陣した。
       酒井吉之丞隊は、清川から進んで新庄領への進出を試み、最上川を渡り、柏谷沢から最上領に入ろうとするも藪が深くて
       断念し、大網口を経て村山に転じることとし、松根に宿陣した。
 4/28・・・鶴ヶ岡本営は酒井吉之丞隊の勇み足を抑えんと服部十郎右衛門を遣わし、吉之丞に「越境してはならぬ」と厳命。
        しかし、俣野郎右衛門は「退いて守るだけでは清川口の二の舞になるのは必至」と反論、吉之丞は一言も発しなかったが、
       後日松平甚三郎の使いとして来ていた芳賀九郎右衛門に本営への手紙を託し大網に宿陣した。
 4/29・・・芳賀九郎右衛門が本営より「開戦は絶対まかりならぬが、村山郡への進出はゆるす」との回答を持ってきた為、
       吉之丞は藩境を越え志津まで進む。
 閏4/2・・(吉之丞が)白岩の東7kmの谷地まで兵を進めると、対岸から天童藩兵がしきりに発砲してくる。
       この日、酒井兵部も白岩まで進出。
 閏4/3・・白岩の酒井兵部の元に酒井吉之丞、中村七郎右衛門が来て軍議を行い、天童藩が頻りに発砲してくる為、
       天童藩に限り攻略したい旨を訴えるが、兵部は進撃不可の藩命を繰り返すばかりで、七郎右衛門は諦めて退出、
       慎重論派の高橋金蔵退出したのを見るや、七郎右衛門は引き返し進撃論を強調、兵部もついに進撃を許す。