■会津藩教育■

 

■日新館の歴史

 日新館が造営されたのは、享和3年(1803年)で、これに着手したのは寛政11年(1799年)であるから、工事に5年を要している。 徳川開府200年を経ていて、どの藩でも士気は緩み、財政の悪化を招いており、道徳の廃退が現れていた。当時の家老田中玄宰は、それをそれを憂いた。
 会津藩には、それ以前より学校が2つあり、「郭内講所」と「稽古堂」の2箇所で、前者が藩士子弟、後者が一般農工商の子弟であった。玄宰は一貫した総合学校としての学校であった。
 多額の建設資金は、城下の富商須田新九郎が大半をする事で解決し、5年の歳月をかけ8000坪に及ぶ一大学問の殿堂が完成した、これが日新館である。

 大成殿にある孔子像は唐時代のもので、名儒山崎闇斎が保科正之に献上したものである。

 「日新館」という名は、時の藩主容頌によって命名されたもので、『書経』の「日日新而又日新」また『易経』の「日新之謂盛徳」からとったものと言われる。

 もともとの日新館の位置は、城の西側にあった。

 戊辰戦争の際は15歳から17歳の少年は白虎隊として出陣した為、おのずと日新館も閉鎖され、野戦病院として使用された。各地から護送されて来る負傷兵を収容していたが、8月23日の西軍城下侵入の際、攻められ、動けるものは逃げる事が出来たが、身動きの出来ない重傷兵は逃げる事かなわず自刃して果てるものが多かった。

 

■其の他 日新館

<江戸日新館>
 芝新銭座の邸内にあり、全ての事みな会津の学校より仕出したるものにて、学校奉行並びに添役は番頭以下にて兼ねるを常とした。
 儒者見習勤一人、素読所勤一人、素読所手伝勤一人、書学は和様・華様の二流、卜部神道武講あり、弓術は道雪派・印西派、馬術は大坪古流、槍術は大内流・宝蔵院流・一旨流にして宝蔵院・一旨の二流は同場なりき、刀術は太子流・神道精武流、砲術は種子島・自由齋・荻野の三流、柔術は神妙流、居合術は新景流あり、その他水練、櫓手の稽古あり。

<猪苗代校>
 儒者見習勤一人、素読所勤一人、書学師範一人、卜部神道師範一人、武講は役付一人あり、弓術は道雪派、馬術は大坪古流、槍術は宝蔵院流、刀術は安光流、砲術は夢想流、柔術、居合術、三尺棒術あり。すべて武芸は締方勤のみにして、師範は日新館の師範これを兼ね、毎年四五回づつ諸生を率いて出張して教授をする。
 学校奉行も春秋二回出張して奨励し、その出張中は師範諸生とも皆小賄を給与せられ、猪苗代より若松に来て稽古することもあるが、其の時にも皆小賄を給与せられた。

<京都日新館>
 京都守護職を命じられた会津藩は、元治2年京都に藩学校を設け、安部井政治が漢籍を教えたりなどした。

<東京日新館>
 正式名称は日新館とは称しなかったが、謹慎中も松平家の再興などの運動の合間に子弟の教育には力を入れ、斗南移住前の明治2年11月に芝増上寺の旧会津藩宿坊徳水院を仮校舎として、校主に竹村幸之進(俊秀)を任命して子弟の教育に当らせたという。

<斗南日新館>
 明治3年8月、田名部の商人大黒屋、立花文左衛門宅を借りて講堂とし、のち明治4年2月円通寺に移り、田名部町人の入学も許し、毎日午前9時から午後4時まで授業を行なった。
 寄宿舎もあり、学科は初等生、三等生、二等星、一等生と分かれていた。会津日新館の頃と違っていたのは、福沢諭吉の「世界国尽」「西洋事情」などの洋学なども教えた事である。しかし、寄宿舎は狭く、生徒の多くは広範囲に散らばっていた為、とてもすべてを収容する事は出来ず、日新館の外の五戸や三戸に漢学校を設立し、更に田名部4ヶ所(野辺地・大畑・川内・斗南ヶ丘)五戸5ヶ所(市川・中市・三本木・七崎・八幡)三戸1ヶ所(二戸)の分局を置いた。
 しかし、明治4年12月田名部の本校をはじめ、各漢学校や分局も閉鎖される事となる。

<余市日新館>
 明治4年6月から7月にかけて小樽や余市に移植した会津人によって余市に開いたもの。

 

日新館学校規則
■令条■
  1. 学校は孝悌を本とし、人々受くる所の徳を成し、材を達し実用の器を成すべきためなり、 諸事師表の教に随い恭敬を主とし、
    年月を遂て時を失わず徳業に進むべし。
  2. 長幼の序を専にし、順序は尊卑に拘らず年齢の順序に随い、新番組々外之士以上並独礼以上の 
    子弟御徒格以上の嫡子嫡孫まで三等の中にて礼を愛敬の道を失うべからず。
  3. 十歳より入学し、定めに随って句読を受け筆道及び諸礼を兼習い、望みに随って雅楽を学ぶべし、
     遠路或は虚弱にして往来難儀の輩は其趣を届け、十一歳より入学すべし。
  4. 十三歳より算術を学ぶべし。
  5. 十五歳より弓馬槍刀の芸を学び、其余の諸芸は望みに随って修行すべし、且つ、 槍刀は専ら士の嗜むべき業なり、
    新番組々外之士以上の子弟は専ら学ぶべし。
  6. 十八歳より兵書を学ぶべし、此年頃に至らば己が学ぶ所の芸術それぞれの持量に応じ練熟することを心懸くべし。
  7. 二十二歳より二男以下諸芸の出席勝手次第たるべし、
    若し四書五経の素法未だ終らず文武の芸究無之者は一統之通相心得出精すべし。
  8. 童子訓の趣を会得し、六科糾則に進て各々材徳を成し、糾則八過の責を恐れ誡むべし、 
    若し師長の教に背き不慎の所行あるに於ては、それぞれ咎あるは勿論、品により素読の場所を移し、又は南北学館の中へ退くべし。
  9. 三百石以上の嫡子は幼少より別して学問に力を用い、人を治るの道に志すべし、且つ独礼以上二十歳以上の子弟学問一等に進み、
    武芸の究有之もの又は書算の中試業相済み、学問武芸の内右席に至らば諸芸の出席 勝手次第たるべし。
    父母薪水の労に代り、孝養を勤め全力有之者は、文武の芸怠るべからず。
  10. 学問の次第により六等の階級を設く、考試を経て進むべし。
  11. 素読刻限は物の色わかる頃より出席し、五ツ半時ころ退くべし、十月節より三月節までは朝五ツ時(午前八時) までに出席し、
    四ツ時(午後十時)迄会読、講釈は四ツ時より九ツ時(正午)まで、其他文武の寮舎定めの如く、 
    それぞれの業を修め、聊も怠るべからず。
  12. 会業の席に於て、尋常の説話を以って講習の妨をなすべからず、仮令不敬無礼の者ありとも誹謗する輩は同科に充つべし。
  13. 会業の席に於て、たばこは時を定て暫くの間容赦たるべし。
  14. 往還(往復)の節は必ず什長に随い、会業の席において所用あらば、什長に告げて其座を起つべし、 途中においても互いに路を譲り、
    他の路人といえども礼譲を以て相接し、平日什長の教に随い、不慎の所行あるべからず、 
    若し、違乱の輩は父兄の教行届かざるに当たるべし。
  15. 先祖の祭事、父母の看病及び親戚の吉凶其外病気痛所等止ことを得ず欠席の輩は、其趣断るべし。
  16. 司業出席退座の節は誦師諸生に先だちて送迎し、誦師へは諸生の中に送迎すべし。
  17. 六科糾則読聞かせの節は、三十五歳以下の子弟残らず罷出拝聴すべし。
  18. 正月十五日聖堂へ参拝し稽古始あるべし。十二月三十日を会納とす、其日それぞれの師に謝辞を述べ、束脩の礼を整うべし。
右条々堅く可相守者也。

 

■日新館学校規則
 日新館では「等級制」を用いており、試験に合格して進級していくものである。所謂「飛び級」が原則となる。
 以下の他にも10歳〜15歳までは毎月六回礼法を学び、13歳からは書学を、14歳からは弓・馬・槍・刀術を学ぶことなどが細かく定められており、
また、それぞれの家格に応じて到達しなければならない等級が決まっており、そのレベルに達する事が出来ない者は、たとえ家格の高い家に生まれても、それにふさわしい役職に着く事が出来ず、定められた年齢までに所定の課程を修了出来なければ、小普請料と称して一種の罰金を徴収されたのである。

素読所
等級 教科書
第四等 『孝経』『大学』『論語』『孟子』『中庸』『小学』
『礼記』『易経』『春秋』『詩経』『書経』『童子訓』
第三等 『四書』(朱註を併読)『小学』(本註を併読)
『春秋左氏伝』
第二等 『四書』(朱註を併読)『小学』(本註を併読)
『礼記集註』『蒙求』『十八史略』
第一等 『四書』(朱註を併読)『近思録』『二程治教録』
『伊洛三子』『伝心録』『玉山講義附録』
『詩経集註』『書経集註』『礼記集註』『周易本義』
『春秋胡氏伝』『国語』『史記』『前漢書』『後漢書』

※第四級→十三歳で読了し、優秀なれば賞を与える。
※第二級→十四歳で合格し、優秀なれば賞を与える。
※第一級→十六歳で本試に合格したものには賞を与える。

 

講釈所

等級 講書 詩文
下等 『経書』
『歴史無点本の読書』
『講義』(講義をする)
作詩・七言絶句
作文・復文
中等 『経書』『歴史』
『雑書』(同前・読書・講義)
作詩・七言律
五言排律・作文
題・序・記事・
跋の一篇
上等 『経書』『史書』
(午後又は夜間の内会を
主にして討論研究)

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遊学 1・中等生中優秀な者を選び江戸に遊学させる。遊学の年期は3年とし、事情により10年。
2・藩命により江戸に遊学する者は林家の門をくぐり昌平校の書生寮の入寮を原則とした。

※下等→以上の考試に合格したものは中等へ進級。
※中等→以上の考試に合格したものは上等へ進級。
※入学は身分に関係なく試験に合格さえすれば許可されたが、進学は、身分や格式によって合格点の規準が異なったと伝えられ、例えば、身分の高い子弟が、試験にて5問まで間違えが許されても、身分の低い子弟は全問正解で合格という仕組みであった。

※『講釈所』では学生の自主的講究を主として、識見を養い、思考法を練る為、学生同士の論講・討議が重視された。

 

昌平坂学問所に学んだ会津藩士

 また、さらに優秀な生徒には江戸の官学「昌平坂学問所」への入学や全国遊学の機会が与えられました。

氏名 入退年
長坂常次郎 弘化2年→嘉永6年(書生寮舎長)
秋月悌次郎 弘化3年→安政(書生寮舎長)
安部井中八 弘化4年→嘉永3年
南摩三郎(綱紀) 弘化4年→嘉永4年(詩文掛)
武井源三郎 弘化4年→安政3年
高橋誠三郎 嘉永2年→安政5年
籾山記一郎 嘉永3年→嘉永4年
土屋鉄之助 嘉永5年→安政2年(詩文掛・舎長助勤)
広沢富次郎(安任) 安政4年→文久元年(詩文掛・舎長助勤・書生寮舎長)
牧原八蔵 安政5年→万延元年
安部井茂松 安政5年(24歳で没)
宗像庄太郎 万延2年→文久元年(詩文掛・舎長助勤)
安部井政治 文久元年(詩文掛・舎長助勤)
米沢昌平 文久元年→文久2年
飯田友三郎 文久元年→文久2年
栃木辰二郎 文久2年(詩文掛・舎長助勤)
小川徳次郎 慶応元年

■『詩文掛』⇒諸生の詩文を添削する詩文掛は入寮の新旧にかかわらず、天分のあるものが任命された。
         最初に詩文掛に指名されたのが南摩綱紀と薩摩藩の重野成斉と言われている。
■『書生寮舎長』⇒在年してすでに年を経た者が『舎長』にあげられ寮中一切の事務を担当し5人扶持が支給され、
            北寮第一室六畳間を独占する特権が与えられた
■『舎長助勤』⇒舎長を補佐するのが助勤で、2名が置かれ、在寮7・8年に及んだ老書生がなることが多かった