■会津藩教育■ |
■日新館の歴史 |
日新館が造営されたのは、享和3年(1803年)で、これに着手したのは寛政11年(1799年)であるから、工事に5年を要している。 徳川開府200年を経ていて、どの藩でも士気は緩み、財政の悪化を招いており、道徳の廃退が現れていた。当時の家老田中玄宰は、それをそれを憂いた。 「日新館」という名は、時の藩主容頌によって命名されたもので、『書経』の「日日新而又日新」また『易経』の「日新之謂盛徳」からとったものと言われる。 もともとの日新館の位置は、城の西側にあった。 戊辰戦争の際は15歳から17歳の少年は白虎隊として出陣した為、おのずと日新館も閉鎖され、野戦病院として使用された。各地から護送されて来る負傷兵を収容していたが、8月23日の西軍城下侵入の際、攻められ、動けるものは逃げる事が出来たが、身動きの出来ない重傷兵は逃げる事かなわず自刃して果てるものが多かった。 |
■其の他 日新館 |
<江戸日新館> <猪苗代校> <東京日新館> <斗南日新館> <余市日新館> |
■日新館学校規則 |
■令条■
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■日新館学校規則 | ||||||||||||||||||||||||||||||
日新館では「等級制」を用いており、試験に合格して進級していくものである。所謂「飛び級」が原則となる。 以下の他にも10歳〜15歳までは毎月六回礼法を学び、13歳からは書学を、14歳からは弓・馬・槍・刀術を学ぶことなどが細かく定められており、 また、それぞれの家格に応じて到達しなければならない等級が決まっており、そのレベルに達する事が出来ない者は、たとえ家格の高い家に生まれても、それにふさわしい役職に着く事が出来ず、定められた年齢までに所定の課程を修了出来なければ、小普請料と称して一種の罰金を徴収されたのである。
※第四級→十三歳で読了し、優秀なれば賞を与える。
※下等→以上の考試に合格したものは中等へ進級。 ※『講釈所』では学生の自主的講究を主として、識見を養い、思考法を練る為、学生同士の論講・討議が重視された。 |
■昌平坂学問所に学んだ会津藩士 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
また、さらに優秀な生徒には江戸の官学「昌平坂学問所」への入学や全国遊学の機会が与えられました。
■『詩文掛』⇒諸生の詩文を添削する詩文掛は入寮の新旧にかかわらず、天分のあるものが任命された。 |