■会津松平家■

 

■保科正之の誕生

 会津松平家藩祖、保科正之は慶長16年5月7日に「将軍徳川秀忠」と側室「お静の方」との間に生まれたが、秀忠の正室「お江与の方」に知られれば、母子共に命の保証がされなかった為正之の誕生は極秘とされた。
 お静の方は、元北条家家臣神尾伊予栄加の娘で、縁あって江戸城に奉公していたが、その静を秀忠が見初めたのである。

 お静の方の懐妊は二度目で、一度目はお江与を恐れて水に流していた。
 正之の時も一度は一族協議の上水に流そうとしたのであるが、お静の弟神尾政景が反対を唱え「我等一族の死活が大切とはいえ、将軍の子を二度も水に流すとは天罰は必定である」と主張し、正之の命は救われたのである。


 〜〜静が安産を願った願い文〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 『南無氷川大明神、当国の鎮守として跡を此国に垂れ給い、衆生普く助け給ふ。ここにそれがしいやしき身として太守の御思ひものとなり、御胤を宿して当四五月頃臨月たり。しかれども御台嫉妬の御心深く営中に居ることを得ず。今信松禅尼のいたわりによって身をこのほとりに忍ぶ。それがし全くいやしき身にして有難き御寵愛を蒙る。 神罰としてかゝる御胤をみごもりながら住所にさまよう。 神明まことあらばそれがし胎内の御胤御男子にして、安産守護し給い、二人とも生を全ふし、御運を開くことを得大願成就なさしめたまはば、心願のこと必ずたがひたてまつるまじく候なり。     慶長十六年二月    志 津』

 誕生した翌日、密かに江戸町奉行米津勘兵衛を通じて、老中土井利勝に報告。土井は翌朝秀忠に報告したところ「覚えがある」と一応認知し、「幸松」と命名し、懇ろに養育せよとの伝言があったが、正之の誕生が公に発表されることは無かった。

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 お静の方と幸松は江戸市中で息を潜めて暮らしていたが、お江与の方の刺客を恐れ、幸松が3歳の時、つてを頼り「見性院」の保護を受けた。
 見性院とは武田信玄の娘で、、武田勝頼を裏切り徳川家康に通じ、徳川家家臣となっていた穴山梅雪の未亡人で、家康の庇護により江戸城田安門内に屋敷を賜っていた。見性院ならば力もあるし母子にとっては安全な場所であった。
 しかし、幸松が7歳になると、女の手で養育しては将来が案じられるという事で、かつての武田の家臣で、信州高遠二万五千石藩主保科正光に養育を依頼。秀忠は正光に対して養育料として五千石加増、三万石としたのであった。

 正光は当初、幸松を預かるということで、正式な養子関係ではなかったが、しかし正光には実子がなく、のち家督を譲るため幕府に養子願いを出しこれが認められた。
 幸松は通常通り15歳で元服した。しかし正光には秀忠に対する遠慮があり元服の際には諱は与えられず、養父正光は寛永8年71歳にて死去、幸松に高遠三万石相続が許され、ようやく正之と名乗ることとなった。この時正之21歳。
 高遠を継いだ5年後の寛永13年突然正之は異母兄である三代将軍家光により17万石加増され、出羽国最上20万石へ移封され、寛永14年将軍家光の命により保科家代々の家宝類を、保科家本流である保科弾正忠正貞に譲り渡すよう命じられ、晴れて徳川家の一員として認められ、更に寛永20年正之は山形20万石から三万石加増の23万石会津藩主に任命されたのである。

 幕府より「松平姓」を名乗ることを許されたが、養育してくれた保科家に対する恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。

 

 

■会津松平家系譜

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::参考文献::
『シリーズ藩物語 会津藩』野口信一/現代書籍
『会津藩諸士系譜』 歴史春秋社