■ 内藤一族  ■

会津藩の九家の一つである内藤家について紹介します。

 内藤家の始祖
 内藤家の始祖は甲斐の工藤氏にはじまる。工藤庄司景光は源頼朝に仕え、富士川の合戦の後勲功賞を与え給い、幕下将軍の御代八人の射手に撰ばれる。奥州の役に功あり、その子小次郎行光は、頼朝より糠部厨川地方(現在の盛岡市付近か)の所領を賜る。行光の子中務長光より厨川に住し厨川工藤の祖となる。

 庄司景光の後孫、工藤藤九郎光長は武田信昌に使え、明応2年10月没っする。孫の虎豊は内藤相模守虎資と共に直諌して信虎(信玄父)の為に殺される。
 その長男祐元、次男祐長は、虎豊の死後関東を流浪するが、武田信玄に召還され、祐元が虎豊の後を継ぎ、次男祐長が虎資の後を継ぐ。この祐長が内藤修理亮昌豊と称する。

工藤家(後の内藤・武川家)系図

 内藤修理亮昌豊は武田信玄の側近二十四将として活躍するが、信玄の死後勝頼の時代に長篠の戦いで討死する。長男豊俊は行方知れず、次男昌弘は石和郷に浪人し慶長13年没。三男昌月(保科弾正忠正俊の次男で養子に入る)が内藤家を継ぎ、箕輪城主となり、武田家滅亡後真田家に属する。昌月没後、その子直矩はのち彦根藩に仕え、直矩の嫡男源助自卓は会津藩に仕え、三男五郎左衛門信富は彦根藩、四男勝左衛門は会津藩、五男源左衛門信利は彦根藩に仕える。
 会津藩に仕えた源助自卓が会津内藤家・武川家の始祖となる。自卓の孫信清の嫡男信恒の子信周が内藤氏を名乗り、信清の次男小助信方・昌蔵自陽が武川氏を名乗る事になる。

内藤・武川家系図

 

 内藤介右衛門信節(近之助)
 天保十年(1839年)4月26日生まれ、幼名近之助。
 嘉永3年(1850年)3月23日家督相続。
 文久2年(1862年)9月京都守護職拝命の為、兵を率いて会津を立つものの、容保と幕府の意見調整がつかぬ為江戸で滞在。11月9〜28日頃京都へ向かう。

 元治元年4月4日26歳で若年寄となり、7月の禁門の変では唐門を守護し戦闘となり、薩摩藩仁礼某の応援の甲斐あって敵を撃破する。しかし8月23日禁門の変での唐門守備の際、苦心の末敵を追い返すものの、態勢を立て直すため退いた後、持ち場を固める事無く薩摩藩に任せ引き上げた事により『閉門』仰せ付けられる。

 翌慶応2年9月若年寄に復職すると同時に禁門の変の功労もあり同日家老職へ昇進する。(家老職につくのは内藤家にとって28年ぶり)この後『介右衛門』受け継ぎ「介右衛門信節」を称する。
 慶応3年2月23日、会津藩は守護職辞任の希望を幕府に伝えるも許可を得られず、信節が幕府老中へ守護職辞任の説得の為、会津より上京し、板倉を旅館に訪ね、守護職就任のまま、容保の一事帰国のみを了承させる。
 6月16日には一向に容保の一時帰国の許可が降りない為、中川宮と会談し促進を依頼する。また後日実弟梶原平馬と共に永井尚志を訪れ促進の依頼をする。
 慶応3年12月、慶喜の下阪に伴い守護職屋敷を土佐藩に引渡し大阪に下る。
 慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いでは大阪城にあって戦闘には参加していないが、枚方・守口方面に戦場巡見の為、山川大蔵等とともに出掛ける。慶喜等の東帰は信節も知らず、報告を聞き『是必ず訛伝ならん。然れども外に漏洩せば人心動揺せん。浪語すること勿れ』と口止めしている。江戸へは由良町に内藤家臣の墓があることから由良町を経由して帰った可能性が高い。

 同年5月藩主福良出張に際して同行し、7月白河口総督として西郷頼母の後を受け出発。のち勢至堂口以北の陣将を務め、籠城戰では三の丸を守備する。
 9月19日軍議が行なわれ、梶原平馬・山川大蔵・内藤介右衛門信節等の計らいで20日早朝土佐藩に降伏の使者を出す事となった。
 22日の降伏の議では梶原平馬・萱野権兵衛等と共に藩老として着座し、容保の退席後萱野権兵衛より、家老・若年寄一同よりの嘆願書が手渡された。

 その後猪苗代に謹慎、のち藩主父子に従い東京へ行き、喜徳の謹慎する有馬藩邸にて謹慎し、明治3年5月謹慎が解かれる。
 斗南へ移住し再婚、五戸にて開拓・漢学の教授をしながら生計を立てる。
 また、明治9年の復禄運動の代表として倉沢平次右衛門等と共に活躍し、明治32年享年60歳にて没。

 

 梶原平馬(梶原悌彦)
 天保13年(1842年)に生まれ、幼名を悌彦と称したが、幼くして梶原健之助の養子となり悌彦景武と名乗った。
 文久2年京都守護職に就任した容保に従って上洛、慶応元年24歳で若年寄を仰せ付けられ、翌2年3月には病の為若年寄を御免となっていた兄の内藤介右衛門信節を追い越し一足先に家老職を拝命、養父の名である平馬を継いで平馬景武と称した。
 若くして家老職についた平馬は、家老横山主税の亡き後、京都にあって藩外交の表面に立ち、諸藩・幕府・朝廷・諸外国との交渉に活躍する。

 この頃英国の駐日公使館書記官であったアーネスト・サトウは通訳の野口の仲介で平馬に会う。贈り物として数巻の淡青色の絹の紋織りとハリー卿とミットフォードとアーネスト・サトウに後から届ける刀剣やその他の品物を記した目録を持参し、アーネスト・サトウより歓待を受け、「色の白い、顔立ちの格別立派な青年で、行儀作法も申し分がなかった」とサトウに言わせている。
 また、サトウの紹介でバジリスク号を見学し、これを気にサトウと平馬等との親密な関係が始まり、戊辰戦争が起こった後もその関係は続いた。平馬はご馳走のお礼にと宴会に誘うが、幕府よりの文句により阻止されるかと思われるも、役人を撒いて宴会を行なったりした。
 鳥羽伏見の戦いに敗れた後、江戸に戻った会津藩士が会津に帰郷するなか、平馬等28名は江戸に残留し、スネルを通じて銃器類を買い付け、また旧幕府勘定奉行より資金を借りて大砲・洋銃を手に入れ、船で長岡藩家老河井継之介・桑名藩士等と共に箱館を経由して新潟より会津に持ち帰った。

 帰藩した後は、庄会同盟や奥羽悦列藩同盟締結に尽力し、会津に戻った後は容保の側で政務を総掌し、8月23日城下に西軍が侵入した際には城内に在った家老は平馬のみという状況に陥り、西郷頼母が馳せ来て奮戦する。
 敗色濃厚となると、米沢藩を通じて降伏条件の交渉を重ねる。開城にあたっては、降伏式後、萱野権兵衛によって家老・若年寄等の嘆願書が提出され受理される。
 藩主父子に従って東京へ行き、容保と共に因州池田邸で謹慎する。謹慎中も家名再興運動に尽力し、明治3年謹慎が解けると秋に斗南へ船で向かっている。また、いうの頃かはっきりしないが、山川大蔵の姉二葉と離婚し、京で出会った水野貞と再婚。斗南では上市川村に居を構えるが、官職にはついていない。

 廃藩置県により、弘前県、ついで青森県となった後、青森県庁に庶務課長として勤めているが、明治5年1月8日青森県庁を辞めており、在勤期間は僅か2ヶ月余りという短期間であった。
 その後函館・根室と移り、妻水野貞は明治14年11月花咲尋常高等小学校に就職し、20年退職、のち私塾を開くが。22年6月私塾を私立女子小学校として改称し経営するが、その開校を間近に控えた明治22年3月23日平馬は享年47歳。
 貞との間には「シツヱ」と「文雄」という子供があり、シツヱは明治11年5月2日函館生まれで、文雄は明治18年6月6日根室生まれである。
 私立根室女子小学校はのち生徒の増加により経営が困難となり、生徒は花咲小学校と弥生小学校の二校に転校させて発展的に解消した。のち明治32年花咲小学校に再度勤務し、昭和2年2月20日79歳で死去している。平馬との子、文雄もまた花咲小学校に教鞭を執るが若くして世を去っている。

 また、明治16年12月20日根室県職員録の庶務課勤務者の中に梶原景雄の名があり、根室県庁に明治16年前後平馬が勤めていた事が解ってきている。

 

 武川信臣(三彦)
 武川信臣は弘化2年(1845年)内藤介右衛門信順の三男として生まれ、名を三彦(かずひこ)と云い、性温厚にして気骨に富み、和歌の道に長じていた。
 慶応4年正月鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸へ戻った後、帰国命令に従わず江戸に残留し、後変名して彰義隊に入隊し、別働隊幡随院分屯信意隊隊長となる。信臣が姓名を変えて彰義隊に入隊した裏には、東征軍の進撃に備える為、特命を受けて踏みとどまったのだという説もある。
 会津藩は帰藩後、軍用金調達と兵器軍需品買い入れの為密かに工作員を江戸に送り込んでおり、信臣は会津藩御用達商人、中島屋忠治郎方外数箇所に潜伏していたこれら工作員と秘密裏に連絡をとり、鉄砲や弾薬、及び軍資金等の供給を受け、工作員であったニ瓶勝介に血判誓約書を見せ、また別れ際に帰国した際には家兄(内藤・梶原)に告げて欲しいと伝言する。
 彰義隊が上野戦争で壊滅した後、桑名藩士川村兼四郎と謀り、再び兵を集め北上しようとするも、佐々木只三郎の弟佐々木源四郎邸に潜伏している所を、因州藩士の襲撃を受け、捕らえられる。兄(内藤・梶原)が会津藩藩相であることにより、彰義隊内でも藩相と呼ばれており、そのことより因州藩士は信臣を疑い、会津藩士であることが判明し、後旧会津藩邸なる訊問局に移され、広沢安任と同室(獄)となる。共に捕らえられた川村等が許されたにも関わらず、信臣は薩長の横暴を痛烈に批判した為、稜木に坐せしめ大石を膝の上に乗せる石抱きの拷問を受け、「骨砕け肉裂け流血淋漓たり」な状態で、会津藩が降伏した後の明治元年10月9日処刑される享年24歳。その3日後恩赦が発令され、皆死を免れる。
 墓は先に出た会津藩御用商人中島屋中治郎が千住海向院に埋葬されたとされるが、のち兄介右衛門信節が上京して墓所を探すもついに見つからなかったとある。しかし、現在菩提寺である泰雲寺に小さな墓石が発見された。これは墓石が見つからなかった事で、兄介右衛門が空のまま墓石のみ建立したものか、のち発見されて改葬したものかは判然としない。

 

 内藤一族の自刃
 内藤一族は内藤家・武川家・上田家・手代木家で前もって早鐘がなった場合、一先ず内藤邸に集まり、その上で揃って城へ入場する事になっていたが、武川家・手代木家は城下町での混乱で合流できず、諦めて三の丸より入場する。一方内藤邸の近くに住んでいた上田家は早くに内藤邸に着き、武川家の到着を待っていたが来ない為、諦めて2家で揃って城へ駆けつけるも城門は閉じられた後で面川の菩提寺である泰雲寺に避難するも、敵が面川に迫った事を知ると信順可隠は2歳の文彦と内藤家の系図、正之公の御直筆等を善竜寺の住職で、僧籍のまま戊辰戦争に従軍し、任務を解かれ兄弟子である得英のいる泰雲寺に身を寄せていた得道に預け逃れさせた。内藤家家族9名、家来5名、上田家5名の計19名は寺内の二十畳の書院に籠り「叱咤呻吟の声戸外に徹する」程の壮絶な最後を遂げた。
 この場より逃れた得道と上田家の妻女は、一同の最後を見届けてから火を放たんと次の8畳間にいたが、砲丸が書院に破裂して猛火起こり、山道を逃れ翌日面川に戻り和尚と共に2家族の遺体を埋葬し、開城後、滝沢妙国寺に謹慎していた介右衛門信節を訪ずれ、宝物と遺言を伝えた。
 明治3年謹慎の解けた介右衛門信節が泰雲寺を訪れ、改めて家族の最後を聞き、得道には従来の厚誼を多として、得道に無禄の分家たることを乞い、得道はそれ以来内藤姓を名乗ったという。

参考文献
『会津藩に仕えた内藤一族』
『会津史談50周年記念号』
『稽徴録〜京都守護職時代の会津藩史料』
『幕末会津藩往復文書』