天寧寺

⇒天寧寺への交通
会津若松駅よりバス「奴郎ヶ前」バス停下車
拝観自由/入場料無料

福島県会津若松市東山町

天寧寺墓域の奥、愛宕神社の手前にある近藤の墓。この墓については諸説あり、土方が建てた墓であるとか、遺髪塔であるとか…。
 ただ、少なくとも土方が生前に唯一墓参出来たであろうとする墓である。この墓の前で土方を目撃したという言い伝えも残っているともいう。

 右に見えているのは土方歳三の慰霊碑である。

 

 
 <萱野権兵衛・妻墓>
 本堂脇から上に伸びる道を直進すると、「会津士魂」の碑があり、そこから右に行き、奥に更に進むと左に登る道があるので、登ると萱野家の墓域があるが、権兵衛長修の墓は、更に上に登った開けた場所の右側に左写真の様に妻と一緒の墓石が立てられている。

 会津藩家老。家禄千五百石。萱野権兵衛長裕の長男。京都守護職を拝命した容保に従って上洛し、翌年父の隠居により家督を継ぐ。慶応元年家老に昇進し、会津戦争の際には、包囲された鶴ヶ城の城外で兵糧を城内に送る指揮をした。降伏後は、新政府より3名の首謀者を出すように言われ、家老の席次と会津藩の未来の為、責任を一身に負って切腹した。切腹を前に、一刀流溝口派の絶えるのを憂慮し、火箸で、その奥義を井深宅右衛門に伝授したという話は有名。享年40歳。

 
戊辰戦争後、敗戦の責を負って自刃した萱野権兵衛の次男で、萱野家は戦争責任首謀者ということで断絶となり(実際には長男が萱野姓を継いでますが)郡姓を名乗る。(郡姓の由来が「母方の姓を名乗った」と言われていますが、御子孫の話では「長正の母は一ノ瀬要人女であるので郡姓ではないと云う事で、遠い祖先(戦国時代)に近い関係のあった郡家を復活させたのではないか?」とも…。
 また、通説では、小倉の育徳館に留学していた際、食事の不味さを母に手紙で伝えたのを母からの返事で叱咤され、その手紙を同級生に見られ会津の武士道を貶めてしまった事を苦に自刃したとされるが、謎も多く、過日出版された「会津少年郡長正自刃の真相」という本の内容が一番真実に近いのでは?と思われる。

天寧寺の墓域に入って、近藤とは反対がわに案内板有り。

 
 <伊東左太夫墓>
 名は祐順、寛堂と号す。
 伊東慎吾祐辰の長男。藩校日新館で学ぶとともに宗川茂にも師事。家禄150石を継ぎ、儒者見習・用所密事頭取を経て大目付となる。藩主が京都守護職に就任したため公用人として京都へ赴く。
 戊辰戦争の際は、七ヶ宿会談にも梶原平馬等と共に出席するなど、奥羽悦列藩同盟の締結にも尽力した。明治2年喜徳の侍講に召し出されて上京、しかし明治4年4月15日に心臓病のため46歳で急逝。
 また、左太夫の次男は飯盛山で自刃した伊東悌次郎(15)。実父俊吾(73)も戊辰の役で西軍が城下に侵入した8/23に甲賀町口で戦死している。
 
 <伊東悌次郎墓>
 伊東左太夫の次男で、戊辰戦争の際、悌次郎は15才であったが、体が大きかったので父に頼んで16才として志願、白虎隊士中二番隊に配属され、戸ノ口原で奮戦した後、飯盛山で自刃した。
 翌年3月、親戚の井深茂太郎の遺族が、茂太郎の死地はどこか占ったことがあった。すると茂太郎は飯盛山で殉死して戦友らと一緒にその地に葬られていることがわかった。 その言葉をたよりに、遺族が飯盛山に行って遺体を掘り起こしてみると、着ている陣羽織に井深家の紋章があって、茂太郎であると判断した。 氏名を書いた板札も帯びていたので間違い無く認める事が出来た。すぐにこれを親戚に知らせた。その時、同所に葬られていた悌次郎も板札を帯びていたため、判明した。いずれも頭髪だけを柩に納めて菩提所に葬り、遺体はそのまま飯盛山に留めておいた。
 天寧寺の墓は、伊東家の墓域、伊東左太夫の墓の2〜3コ隣にある。
 
 <田中土佐墓>
 田中玄良の長男として生まれ土佐を襲名した。家禄は1800石。名は玄清。
 田中家は会津九家の一つで、玄清も家老に就任する。
 京都守護職拝命の際は、西郷頼母と共に江戸へのぼり守護職辞退を訴えるが、容保の決意が固いことを知ると、先発し上洛の準備に当たり、守護職の役目が円滑に務められるよう尽力。
 鳥羽伏見の戦いでは、陣将を務め、会津戦争の最中、西軍が城下へ侵入した8/23に同じく家老の神保内蔵助と共に土屋一庵の屋敷で自害。
 降伏後、萱野権兵衛、神保内蔵助と共に戦争責任者の一人として名前が提出されている。

 長いこと、田中土佐の墓が天寧寺にある事は知られていたが、実在するかは不明とされていたが、ありました☆近藤勇の墓所に行く途中、最後に右に曲がるカーブ地点で、右に上がるわき道がある(伊東家の墓所に行くわき道)。それを直進し、左側に南摩家の墓所が見えた直ぐ先の左の山の上に登っていくわき道を登っていくと、小山の天辺開けた場所に、田中家の墓所が固まって存在する。その中ほどに小さな玄清の墓石が存在する。
 
 <相馬孫市墓>
 近藤勇墓方面に進み、上記田中土佐の墓に行く途中、左に南摩家墓域がある辺りの二股を右に進むとその奥に相馬家の墓域がある。その一番奥に、宇都宮戦線で戦死した相馬孫市の、妻ヒサとの合葬墓。(孫市自身は宇都宮で戦死しているので、一緒に埋葬はされていないと思われる)
 慶応2年、江川太郎左衛門の塾に入り、後戊辰戦争の際は諸生隊隊長として出陣し、宇都宮にて慶応4年4月23日戦死。享年28歳であった。
 柿沢勇記等と共に、日光観音寺に埋葬されたと思われる。
 
 <間瀬新兵衛利貞墓>
 萱野権兵衛の墓へ向かう途中、「会津士魂碑」を右折し直進し、突き当りを左折、その先を左折すれば萱野家の墓域となるが、逆に右手前上に登る道を上がり、並ぶ墓石の前を更に奥に進み、突き当りを尾根反対側に進むと、間瀬家の墓域に出る。
 左写真は間瀬新兵衛利貞のもので、間瀬新兵衛は、士中白虎二番隊の自刃隊士一人間瀬源七郎の父。
 元奉行で、慶応4年9月14日城中にて戦死。享年67歳。
 
 <間瀬岩五郎利直墓>
 上の間瀬新兵衛の墓と同じ並びにある新兵衛の嫡男で、源七郎の兄である間瀬岩五郎の墓。墓石の側面には、岩五郎の名前と、利貞の嫡男である旨、明治元年8月29日の戦いで戦死した旨が記されている。
 岩五郎は朱雀足軽二番隊中隊頭であったが、慶応4年8月29日の長命寺の戦いで戦死。享年29歳であった。
 ちなみに、弟源七郎自身の墓も探してみたが、それらしい墓石はなく、たぶん遺品などを、この間瀬家の墓域の傍らに埋葬しただけに留め、個人としての墓石は建立されなかったものと思われる。





お秀茶屋

 武家屋敷近くの創業延宝年間(1673〜80)の老舗で、串刺しの餅や生揚げなどをこうばしい田楽にし、自家製の味噌を付けてある。もち田楽が名物だ。

福島県会津若松市東山町石山天寧308

10:00〜18:00(通常) 9:00〜17:00(冬期)
田楽735円(税込)ところてん315円(税込)

 

お秀茶屋名物の田楽、入り口の囲炉裏の炭火で焼かれる田楽は、
甘味噌と炭火の香りで食欲をそそる。




会津武家屋敷

 
 藩老西郷頼母屋敷を復元したもので、幕末の武家の生活がわかりやすく紹介されています。他にも時期によって特別企画展が行われていたり、弓道が体験出来たり、楽しく有効に時間を過せます。

福島県会津若松市東山町東山温泉入口

公式HP→こちら

8:30〜17:00(4〜11月) 9:00〜16:30(12〜3月)
観覧料:大人850円:中高生:550円
 
 会津武家屋敷敷地内、会津人文学館を過ぎたあたりにひっそりと建っている旧会津藩士で幕臣佐々木家に養子入りし、見廻組として京都で活躍、清川八郎や坂本竜馬の暗殺などで知られている佐々木只三郎の墓。
 鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、退却途中死去、紀三井寺にて葬られる。のち古くなった墓石を会津の有志が貰いうけ、ここ武家屋敷敷地内に移されたもの。

 

 

院内御廟(会津松平家墓所)

⇒院内御廟への交通
JR会津若松駅よりバス「会津武家屋敷前」下車、入口まで徒歩10分、墓所へはさらに徒歩20分
拝観自由/見学無料

福島県会津若松市東山町院内

 会津武家屋敷から東山温泉方向に向う途中の山中にある。
 会津藩主松平9代のうち二代正経〜九代容保迄がまつられており、藩祖保科正之の長男正頼が亡くなった1657年、保科正之の命によりこの院内山を開いたのが始めである。
 左方の藩主の子供や夫人たちの墓の中に正頼の墓もある。さらに左手の山腹に松平家2代正経の墓(仏葬)、頂上には3代正容から9代容保の墓所が並んでいる(神葬)。なお初代保科正之の墓は猪苗代町見祢山の土津神社にある。

 

左上:四代藩主「容貞」⇒在位期間19年(享年26歳)
右上:五代藩主「容頌」⇒在位期間55年(享年61歳)
左下:六代藩主「容衆」⇒在位期間5ヶ月(享年28歳)※僅か5ヶ月で亡くなった為、官名が侍従の儘である。
右下:七代藩主「容衆」⇒在位期間16年(享年19歳)
                ※僅か19歳で死去した為、子を生せず容衆で正之の血統も途絶えました。

 

左:八代藩主「容敬」⇒在位期間30年(享年46歳)※幕府には容衆の遺児として届けるも、
               実際は水戸藩より高須藩に養子入りした松平義和の隠し子を田中玄宰が内密に貰い受けた。
右:九代藩主「容保」⇒在位期間16年(享年58歳)※美濃高須藩主松平義建六男で会津松平家に養子に。

 

<二代藩主 保科正経墓>
 二代藩主正経は、歴代藩主中唯一仏式で埋葬されています。
 歴代藩主の並びとは少し離れた下段東側にあります。

 母はあの「お万の方」で、正保3年江戸の芝屋敷に生まれた。
 兄正頼が亡くなった為、二代藩主となる。万治元年将軍家綱に拝謁し従四位下に叙し、ついで侍従、筑前権守となる。
 正之が亡くなった際は、本来幕府は神道での埋葬に難色を示したが、正経が説得し美禰山に神式にて埋葬し、友松勘十郎に土津神社を命じた。 しかし、延宝9年10月3日江戸箕田第でわずか36歳にして病の為死去した。三代目には弟の正容を指名した。
 
 <保科正頼墓>
 正頼は、保科正之の嫡男として寛永17年12月4日江戸の桜田第に生まれ(母はお万の方)、従四位侍従に進み、後々は二代藩主となる事を期待されていたが、明暦の大火の際、芝の藩邸にも火の手が進み、正頼は母や弟を避難させ、自らは屋敷に戻り消火に指揮に当たったが、その疲労も溜まったのか、翌月の2月1日に東海寺にてわずか18歳にて没した。
 この時、正之は48歳で正頼は周りも認める跡取りであり、正之の嘆きは相当のものであったという。そして、正之は正頼の為に会津に墓を建てる事を命じ、院内と定められたという。

 正頼は18歳で死去してしまい、藩主の座には着かなかった為、歴代藩主の並びではなく、
西のお庭」に墓が建てられている。

 

 

御薬園

 

 起源は葦名10代盛久が霊泉の湧くこの地に別荘を設けた事が始まりと言われ、以後歴代藩主の別荘として使われました。
 二代藩主正経がここに薬草を栽培した事が名前の由来とされ、現在でも400種類の薬草が植えられています。
 ここは戊辰戦争中の西軍進入前まで板倉勝静等が滞在し、籠城戦中は、新政府軍の病院として使用され、そのため建物は当時のまま残され、現在でも御茶屋御殿の柱には刀傷が残っています。戦後、土津神社と御薬園と鶴ヶ城は新政府軍に没収され、それを憂いた豪商長尾氏により寄付が募られ、その寄付によって土津神社と御薬園は買い戻され、会津松平家に献上されました。
 また、戦後容保が余生を過し、また長女厚姫(美祢)や四男恒雄が生まれた場所としても知られています。

福島県会津若松市花春町8−1/会津若松駅よりバス「御薬園前」バス停下車徒歩2分。

拝観時間:午前8時30分〜午後5時まで(入園締め切りは午後4時30分)
観覧料:大人310円:高校生260円:小中学生150円

 

滝の上墓地

 
 <西郷永四郎説近墓>
 幕末家老西郷頼母近悳の弟、西郷頼母近思の四男永四郎説近の墓。
 説近は、朱雀士中二番隊田中蔵人隊に属し、4/18の小佐越の戦いで負傷、その後日新館病院で6月1日に没している。享年18歳。

 墓所は、滝の上墓地の一番奥右手、道路側に沿った場所、西郷家の墓石が9基程ある中の一番向かって左手。他に、西郷頼母近悳の同じく弟近思の三男湖三郎の墓もこの一帯にあります。墓碑には「祝近」と記されています。(「祝近」というのは誤字?それとも諡?)

⇒滝の上墓地への交通
磐越自動車道会津若松ICより国道49号線経由で20分
JR磐越西線会津若松駅よりバス20分「温泉入口」下車。

福島県会津若松市東山町大字石山字院内706

 東山温泉入口の二俣を左に入るとすぐ「東鳳」ホテルが見えてきます。その直ぐホテルの裏手(道路沿い)に広がる墓地。道路から墓地に上がる階段があります。