母成峠

⇒母成峠への交通

磐梯熱海ICより車で20分程度
        
(母成グリーンライン沿い)

拝観自由/有料道路沿いの為道路代必要

福島県郡山市〜猪苗代町


戊辰戦役東軍殉難者慰霊碑

 
<戊辰戦役東軍殉難者慰霊碑>

拝観自由/有料道路沿いの為道路代必要

 
<戊辰戦役東軍殉難者埋葬地>

 慶応4年8月21日の戦いで戦死した東軍兵士の遺体は長く放置されていたが、地元の人々によって西軍の目を盗んで、此の地に仮埋葬された。
 その後、此の地は雑草に覆われて所在が解らなくなっていたが、昭和53年に猪苗代地方史研究会の手によって発見されたもの。

拝観自由/有料道路沿いの為道路代必要
 <西郷頼母歌碑>

 『なき魂も 恨みは晴れてけふよりは  ともに長閑く 天かけるならん』

 この和歌は会津藩家老西郷頼母が明治22年4月24日、阿弥陀寺で会津殉難者慰霊祭が晴れて行われる事を喜んで詠んだ歌で、西郷邸での自刃者21名のうち、小森家の縁の人物が6名いた事と、母成峠の戦いで小森一貫斉が戦ったことを思い、一貫斉の曽孫の方が昭和59年に建立したものである。

拝観自由/有料道路沿いの為道路代必要






小峠古戦場(土湯峠)

⇒小峠(土湯峠)古戦場への交通
猪苗代ICより車で1時間
地図

福島県福島市土湯温泉町野地

 磐梯吾妻スカイラインを出て、野地温泉を越えた鬼面山に差し掛かるあたりの道沿いに上の写真で見て頂いたとおり、ひっそりと古い案内板が建っている。(一瞬なので見逃さないよう気をつけよう)

 この土湯峠では、慶応元年4月18日に瀬上主膳を隊長として筑州藩50の兵を加えた850名の兵を、この土湯峠に進め、会津街道小峠六合坂に陣を築き、大峠の山頂で待ち構える会津藩と交戦した。

 

 十八日仙臺藩瀬上主膳をして兵を會津の国境に進めしむ、我が藩土湯峠の守将朱雀一番寄合中隊頭一柳四郎左衛門之を聞き、半隊頭ニ木理助、軍事方野村監三郎をして土湯(川俣領森孫三郎支配の幕領なりしが、当時仙臺藩にて管理したるなり)に行きて彼の動静を探らしむ、土湯の人民切に來り告げて曰く、今夕仙臺藩穴澤與三郎農兵を率いて此の地に來り、参謀世良修蔵等も亦二本松より來るべければ貴軍直ちに此の地を撤去せられては如何と、ニ木は之を聞き横向きに歸りて之を報じ、監三郎は土湯を距る二十余町の路傍に潜匿して其の動静を窺ふに、翌十九日未爽仙臺兵果して弓矢銃槍長刀を執り列を成して陸続來る。
 監三郎潜地を出つ、兵士数人來りて姓名を問ふ、監三郎答えて曰く、余は會津藩の軍事方野村監三郎なり、足下は何藩なりや、彼等曰く仙臺の軍監大槻定之進、姉歯武之進、内田喜三郎なりと、監三郎は印鑑を出して示す、大槻等は監三郎を伴いて土湯村に至り深室に誘ふ、隊長瀬上主膳左右を退けて曰く、薩長参謀等我が藩の進撃を促すこと急なり、因て此處に來り陣す、貴藩の国境の守備全きや否や、監三郎曰く全し、足下等兵を以て我が国境に進まば我も亦兵を持って應へざるべからず、為に両藩の情好を害するも武門の大義を奈何せんと、主膳曰く実に高説の如し、而かも已むことを得ざるなりと相別る。
(中略)
 主膳は監三郎を樹陰に招き、聲を低うして告げて曰く、大槻の兵此の峠を攻撃せん、薩長筑の兵も亦之に加はらんも知るべからず、弊藩固より貴藩に対して舊怨あるにあらず、徒に兵士をして死傷せしむるに忍びず、接戦の際は弊藩の振旗は白地に小の字を書せん、足下請う豫め之を記せよと、監三郎歸りて之を四郎左衛門に告ぐ
(中略)
 四月二十日辰の上刻(午前八時)仙臺藩の軍監姉歯武之進來りて一柳四郎左衛門を見て曰く、(中略)武之進曰く、然らば兵を以て見ざるを得ず、依って小峠(大峠より下り、前方にある所の要口なり)より空砲を発すべければ、貴藩にても其の意を了して應戦せよ、機会を計りて休戦を令すべしと、應接頗る懇篤なり、内約成りて歸る、小時にして小峠に仙臺の兵來るの報あり、四郎左衛門令して曰く、螺一聲聞かば散兵発砲すべし、螺聲頗繁ならば猛聲すべし、螺聲緩ならば発砲を止めよと、仙臺兵小峠に登りて大小砲を発射す、是に於て四郎左衛門自ら螺貝を執って吹くこと約の如し、戦いを交ふるに及んで彼の大砲実包を発射す、故に我も亦実包を以て之に應ず、数刻にして彼の砲聲漸く緩なるを以て兵を収む、一人の死傷なし、午の上刻(正午)陣営に歸る。
 仙臺藩横田官平は我が藩救護の為來りて若松に在りしが、戦報を聞き其の周旋の空しからんことを恐れ、横向の我が本営に馳せ至り、四郎左衛門に会談すること数刻にして土湯に赴き、主膳に面して復た若松に歸れり。
『會津戊辰戦史』より)