法界寺

 

⇒法界寺への交通
会津坂下駅下車 徒歩10分
拝観自由/入場料無料

福島県河沼郡会津坂下町字光明寺東甲3944

 室町時代の永享10年(1438)の創建。境内には会津藩の婦女子によって結成され、後年「娘子隊」と呼ばれた一人「中野竹子」の墓がある事で有名。
 
 <中野竹子墓>
 中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士中野平内の長女で、母は孝子、妹は優子。藩主・松平容保の義姉・照姫に武道の指南をしていた赤岡大助に薙刀を、藩内の書の大家であった佐藤得所に書道を習い、薙刀の腕前は道場の師範代を勤めるまでになり、書もまた、備中庭瀬藩主・板倉侯夫人の祐筆を勤める程の腕前であった。後赤岡大助の養女となるが、戊辰戦争が起こると赤岡家と離縁して中野家に戻る。
 <中野竹子墓2>
 新政府軍が城下に迫ると、「照姫様は坂下へ避難された」という言葉に他の婦女子等と共に薙刀を手に照姫の護衛の為坂下に向かうも、照姫は坂下にはおらず、既に城内に入った事を知ると、越後口から退却してきた萱野権兵衛に一緒に戦い隊旨を頼み込み、萱野もその熱意に打たれ隊に加わる事を許した。
 慶應4年8月25日湯川の涙橋の袂で新政府軍と交戦、薙刀を振るい奮戦するも、弾丸に当り戦死。享年22歳。
 その首は母孝子と、妹優子が介錯しようとするも、介錯する事が出来ず、そのままに退却、後から他者が代りに介錯してくれたという。
 
 <戊辰役殉難碑>

拝観自由/拝観無料





勝方寺



⇒勝方寺への交通
磐越自動車道会津坂下IC下車15分
拝観自由/入場料無料

福島県河沼郡会津坂下町大字勝大字沢口1336

 砲兵隊南摩弥三右衛門の南摩家・と町野主水の町野家の両家族は入城しようとするも入城出来ず、勝方村の勝方寺に身を寄せたが、町野主水が戦死したという誤報を聞き、死に遅れてはと自刃して果てたのである。
 境内裏山の奥にひっそりと↓の碑が建立されている。
 
 <会津戊辰戦争殉難の碑&松坂平左衛門墓>
 町野家・南摩家殉難の地碑。
 
砲兵隊南摩弥三右衛門の南摩家・と町野主水の町野家の両家族は入城しようとするも入城出来ず、勝方村の勝方寺に身を寄せたが、町野主水が戦死したという誤報を聞き、死に遅れてはと自刃して果てたのである。
 町野主水妻やよ子(24)は、長男源太郎(3)長女なを子(7)を刺し、母きと子(47)姉ふさ子(31)と共に自刃。南摩弥三右衛門の母勝子(42)は壽(8)、辛(4)を刺し自刃。