滝沢本陣

⇒滝沢本陣への交通
会津若松駅前の道を直進。
駅から「はいからバス」等の循環バス等の飯盛山行きのバスも出ている。
拝観時間:早朝〜夕方/入場料:大人300円 高校生250円 中学生150円

福島県会津若松市一箕町滝沢122

 滝沢街道の入り口にある滝沢本陣は、文禄4年(1596年)に建てられたもの(開設年月:延宝年間1679年)で、領主が参勤交代や領内巡視の際の休息や身支度を整える為設けられた所である。

 戊辰戦争の慶応4年8月22日母成峠の敗報に接し、藩主容保自ら出馬して滝沢本陣に本営を置き指揮を執ることとなり、十六橋破れるの報が届き、護衛として付き添っていた白虎隊士中二番隊はここから戸ノ口原へ出陣した。しかし、諸隊の奮戦むなしく、翌23日西軍が滝沢峠からなだれこみ、容保等は本陣より城へ退却した。
 滝沢本陣内の板襖に数多くある戊辰戦争の際の弾痕。弾痕以外にも刀傷なども残っている。

 

妙国寺

⇒妙国寺への交通
会津若松駅からバス「滝沢」又は「滝沢妙国寺入口」を下車徒歩3分。
拝観自由/見学無料

福島県会津若松市一箕町
 滝沢本陣の前の道を駅方面に直進し、右側に「妙国寺」の案内が見えたら右折し、細い道を進んでいくと正面に妙国寺が見える。

 
 日蓮宗に属し、妙法寺末寺。
 飯盛山に自刃した白虎隊士中二番隊19名の遺体は、初め肝煎吉田伊惣治によって、この寺に埋葬されたが、のち埋葬許可が新政府軍より下りたことによって、現在の飯盛山に改葬された。
 また、明治元年9月22日鶴ヶ城降伏によって城を明け渡した後、藩主松平容保と養嫡子喜徳はここ妙国寺に移され謹慎する。そして、1ヵ月の後には江戸に身柄を移されている。
 

 

 

 総門を入る前を右に進むと左手に「白虎隊埋葬地入口」という碑が見える。その奥には左写真の様に、肝煎吉田伊惣治の手によって白虎隊士達一旦埋葬された場所に慰霊塔が建立されている。

 

大龍寺

⇒大龍寺への交通
会津若松駅からバスで「和田」もしくは「慶山」下車徒歩5分程度
拝観自由/入場料無料

福島県会津若松市慶山
 いにしえ夢街道沿いの、飯盛山方面に向って右側に門柱があり、そこから石段を登った先にあります。

 

 
戊辰戦争の際、西軍の野戦病院となった寺で、その為焼失を免れた為、当時のまま残されている。
 保科正之が会津に転封となった時会津に移転してきた「お供寺」の一つ。当時は慶山寺という無住の寺で、そこに山形より正之に従って会津入りした機外禅師が入って開山した寺。
 本堂には「幽霊の足跡」がある(…幽霊って足あるんでしょうか?)

いにしえ夢街道沿い飯盛山に向かって右側。

 

<戊辰戦争殉難殉節供養碑>

林権助や神保内蔵助・丹羽族等の名前も見える。

山門入ってすぐのところに建てられている。

 
<小笠原長時・妻・息女墓>
信濃守長棟の子。弓馬及び礼式に優れ、小笠原流大成の祖。長時は武田信玄との戦いに破れ、上杉謙信を頼って越後に逃れた後、将軍足利義輝の弓馬の師範となった。
 しかし義輝が三好氏らに滅ばされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に妻子ともに殺害された
 

<小笠原家家臣墓>
母成峠(勝軍山)にて8/21に戦死した来援の小笠原家の家臣の墓。
明治になってから、小笠原家子孫が小笠原長時の墓の墓域内に建立したものである。

 
<丹羽族・妻茂子墓>
 大龍寺の奥にある無縁墓を集めている場所の右端最前列にある丹羽族と妻の墓。
7月29日、西軍に再度長岡城を奪われてしまった長岡藩勢は、会津に逃れ再起を図るべく、難所と呼ばれる八十里越へ向かったが、八十里越には長岡藩兵のほか、戦火より落ち延びてきた農民も殺到。会津の敗兵と合わせると数千人にも達していた。
 この頃、八十里越方面の代官として丹羽族(やから)が野尻に駐在していた。  族は、越後からの避難民の救助、食糧補給が命じられたが、地元の農民達も食糧事情は苦しく、調達に応じてくれなかった。長岡からの避難民は飢えに苦しみ、万策のつきた族は8月6日の朝、遺書を認めて自害した。享年三十九歳であった。 地元農民たちは族が自害したことを知り、驚き食料を提供。どうにか避難民達は飢える事無く、若松に辿り着く事が出来た。
 また、族は北海道に「丹羽村」を造った丹羽五郎の実の父親である。
 

<沼澤七郎墓>

 沼澤道子の子で、父弘通が早くに亡くなり、兄も2人は早世・1人も元治元年9月に京都にてに没した為、12歳で家督を継ぐ。戊辰戦争時は16歳で越後方面に従軍し、戦後は東京で学び、福島県に出仕、伊達郡長となり、岩手・秋田・香川諸県の参事を歴任、韓国での道書記官を最後に退官。大正4年12月20日東京にて没。
 妻久仁は西郷頼母の妹八代子の娘で、西郷家とは姻戚関係となる。
 そして、子供がいなかった為、旧新撰組で会津藩士となっていた藤田五郎(斉藤一)の三男龍雄を養子に貰っている。
 戊辰戦争の際に、母道子・祖母貞・2人の姉(りや・すが)は自刃している。

<神戸民治・綱衛墓>
 会津雑記にも書いた「原田事件」の当事者の一人、神戸民治の墓。
 幕末の時、家老となった原田対馬(原田七郎)の少年時代、神戸民治・高木豊三郎・多賀谷弥七の3人が寵愛していたが、3人の間で揉め事が起り、刃傷沙汰となり、裁判に3年も掛かり、容保自ら傍聴する事もあった。(詳しくは会津雑記をご参照下さい)
 民治は戊辰戦争の青龍士中三番隊半隊頭として9月17日の一ノ堰の戦いで戦死。享年31歳。

 境内左の小笠原長時の墓裏手、神戸家の墓域手前。

 

<林権助墓>
 砲兵隊長として活躍し、鳥羽伏見の戦いで負傷し、大阪にて没。
 大龍寺墓域入って、小笠原家墓の裏手にあるちょっと小高く丘になったところを上がったところに、囲いがあり、その右手「林安定」氏の墓になります。

<ゆうれいの足跡>
 何時の頃からあるかは不明ながら、幽霊が残していったという言い伝えがある本堂の拝殿前のうぐいす張りの床に残されたひょうたん型の足跡とも見えるくぼみ。
 (ちかくの寺には「幽霊のお墓」もあるとか…)

 見学の際は、お寺の方にご迷惑にならないよう、お願いして見せてもらうようにして下さい。

 

正法寺

⇒正法寺への交通
会津若松駅からバスで「奴郎ヶ前」下車徒歩5分程度
拝観自由/入場料無料

福島県会津若松市慶山
 いにしえ夢街道沿いの、愛宕神社より手前、飯盛山方面に向って右側に門柱があり、そこから石段を登った先にあります。

 

<佐原盛純墓>
 毎年、白虎隊墓前祭で奉納される剣舞で謡われる「少年団結す白虎隊…」で始まる漢詩『白虎隊詩』この漢詩を作詩したのが、長く旧制会津中学の教師として国語と漢文を教えた佐原盛純。
 幼名を佐輔といい天保3年若松馬場町の商家に生まれた。 盛純は幼いときから学問好きで18歳のとき江戸に遊学、添川完平・杉原心斎らに学ぶ。そして幕府の外国奉池田筑後守の侍講となり、文久3年には、28歳でフランスにも渡航している。 明治維新後、士族の佐原省三の養子となり、佐原盛純と改名しています。 明治4年の廃藩置県後は生活のため司法省に勤めるが、しかし病の為明治8年、40歳で辞職し会津へ帰郷。明治11年に福島県の教員として若松町内の各学校に奉職。明治15年に私学校日新館が設立されるとその教授となりました。 明治17年、館長中條辰頼の依頼により漢詩「白虎隊詩」を作詩、能を基にした剣舞をつくりあげ、10月に飯盛山の墓前に初めて剣舞が奉納されたもの。
 
<幽霊の墓>

 境内左手前の無縁墓を纏めてある場所の最前列にある「即心即仏」の墓石。 会津保科正之の家来に、阿蒲太郎左衛門という人があった。この男の妹は他家に嫁したものの、なぜか早死してしまった。
 そして彼女はその死の際、死骸は実家の墓地に葬ってくれと頼んだのであるが、その頼みは聞き入れてもらえず、夫の家の墓地に葬られた。その為、幽霊となり、正法寺の和尚の前に姿を現し、実家の墓地に改葬してくれるようにしきりに哀願したのだった。
 哀願を受けた和尚は、霊の迷いを鎮めるべく戒を授け、その死骸を改めて寺内にある実家の墓地に改葬し、「即身成仏」と刻んだ墓碑を建ててやった。それからというもの、女の幽霊は二度と姿を現すことはなかったという。 そしてそれ以来、この墓は幽霊の墓として知られるようになったのだという。

 

不動滝

⇒不動滝への交通
会津若松駅からバスで「滝沢」下車徒歩10分程度
拝観自由/見学無料

福島県福島県会津若松市一箕町
 滝沢本陣を抜けて、更に直進し、滝沢街道の旧道に入り二股に分かれる処を右に進み、更にそこからは滝沢街道の古道に続き、再度二股に分かれる道を右に進路をとると、未舗装の細い道が続き、右手に下る階段が現れたら、階段を降る。赤い旗が参道沿いにたなびく中を進むと正面に社が見え、その裏手に不動滝が現れる。

 会津戦争のおり、白虎士中二番隊の伊東悌次郎・池上新太郎・津田捨蔵の3名の死体が見つかったのは、この滝の上だったといわれています。 また、白虎隊士の酒井峰治が手記「戊辰戦争実歴談」の中で、隊とはぐれ道に迷っていた時に農馬を連れた百姓の母に案内され不動滝の上方に出る。後愛犬クマと再会している。

 

不動滝の上方
伊東悌次郎・池上新太郎・津田捨蔵の3名の死体が見つかったとされる辺り?)

 

 

滝沢街道(古道)沿い

 現在は滝沢街道と呼ばれるものは3つあり、それぞれ「新道」「旧道」「古道」と呼んで区別していて、左写真は古道のもの。
 もちろん幕末の頃は古道のみで、この道を母成峠や十六橋を破った新政府軍が駆け下り、また、十六橋破れるの報に接し出陣命令を受けた白虎隊士中二番隊が駆け上った道です。 

 この道、春や秋は熊が出るらしいので、もし一人で上られる場合は熊避けの鈴を持つなどの対策を☆夏は蚊対策が必要です☆

 

 

 滝沢街道の旧道を通り、金掘集落の所で右折し山道を登りきった所にある「戦死十八人墓」の墓があり、そばには案内板も建っているので解りやすいです。(滝沢峠頂上付近)
 案内板には「慶応4年、戊辰戦争の際、日橋川を渡河した新政府軍は大挙してこの道を急進撃し、多くの会津藩士らが戦死しました。地元金堀・下馬渡の村民たちはこれら戦死者を手厚く葬り、この碑を建てました。

 滝沢街道古道沿いにある「舟石」この石は、神が天下る際に乗り来たったという伝説のある石で、戊辰戦争の際の新政府軍が進撃してきた8月22日に会津藩士桜井常四郎が、この石の上で怨敵退散の祈祷を行い、妻に「我命ある限り、敵に滝沢峠は越えさせぬ。もし敵が城下に入らば、我は死したるものと思え」と言い、その言葉とおり、敵が迫ってくると、この石の上で立ち腹を切って果てたのである。
 また、妻も新政府軍城下進入の報を聞き、常四郎がこの世にいない事を悟り、自害して果てたのである。

 頂上の少し手前の旧道と古道の交わるところから、車止めを越えて歩いて5分程度で見えてきます。

 
 金堀鎮守山神社前にある戦死十一人墓。戦死十八人墓より更に旧道を登った先に古道を交わった場所の右側に小さな案内板があるので、そこから斜面を少し下ったところにあります。
 
  河東町強清水旧街道脇に強清水を過ぎ猪苗代方面へ進んだ所に「戦死二十二人墓」の案内があり、その一段高くなった場所に「戦死十六人墓」と「戦死六人墓」が並んで建っています。
 慶応4年8月22日の戸ノ口原の戦いで戦死した兵のもので、強清水村民達の手によって埋葬されました。

 

 

妙法寺
⇒妙法寺への交通
会津若松駅よりバス「一高前」下車目の前。
甲賀町口通りを鶴ヶ城と反対に直進すると左側にある。
若松一高の向かい
拝観自由/見学無料

福島県会津若松市馬場本町3-34

 明徳2年創立。会津出身の名僧日什大正師を、城主葦名氏が寺を建てて迎えたのが始まり。天正の乱(1589)で破壊されたが、蒲生氏郷より寺域を現地に賜わり、のち大寺院となった。
 宝永6年の火災後復興したものの、戊辰戦争で堂宇は全焼。
 明治44年本堂が再建され、大正初期に整備されて現在に至っている。 中野竹子の父中野平内・母中野孝子の墓がある。また入口石橋欄干は旧日新館のものである。
 

 

 <中野孝子墓>
 中野竹子・優子姉妹の墓で、自身も薙刀を手に戦い(俗称:娘子隊)後入城してからは、負傷者の手当てや炊き出しなどに尽力した。
 
中野平内墓>
 幕末の会津藩江戸詰勘定役で、中野竹子・優子の父(孝子の夫)。
(左の僅かに見える墓石が上の妻孝子のものである)

 

 

法華寺
⇒法華寺への交通
会津若松駅より徒歩20分。
会津若松駅よりバス「蚕養町」バス停徒歩12分。
拝観自由/入場無料

福島県会津若松市蚕養町8-1

 日蓮宗の寺。
 隆國山と号し、中六日町にあり。本山は安房誕生寺にして、境内地781坪7合7反29畝。日蓮三世の法孫日進法第日榮僧都元徳二年八月の開山。
 <木村一族の墓>
木村幸蔵忠恕・・・兵庫の実父。明治元年8月23日一族で自刃。68歳。
木村忠右衛門・・・兵庫の養父。明治元年8月23日一族で自刃。60歳。
木村兵庫忠辰・・・500石。青龍寄合一番隊中隊頭。 慶応4年6月24日
           磐城棚倉郷戸で負傷。8月23日若松自邸で家族8人
           と自決。39歳。
木村大作忠良・・・兵庫の弟。慶応4年5月26日越後小栗山で傷、
           8月23日若松自宅で自刃。26歳。
木村恵武(エン)・・・兵庫の娘。明治元年8月23日家族と自害。6歳。
木村嘉與(カヨ)・・・兵庫の妻。(柴佐多蔵女)
            明治元年8月23日一族で自害。32歳。
木村ナミ・・・兵庫の実母(中林氏)。明治元年8月23日一族で自害。59歳。
木村琴(コト)・・・兵庫の義妹。明治元年8月23日一族で自害。25歳。
木村壽賀(ナカ)・・・兵庫の娘。明治元年8月23日一族で自害。8歳。
木村ナヲ・・・兵庫養母。(簗瀬氏)明治元年8月23日一族で自害。50歳。
 
<忠婢清女之墓>
木村兵庫家の女中。越後中蒲原郡女池村出身(現在の新潟市中央区)。慶応元年(1865年)木村家の女中となる。
戊辰戦争では木村一族自刃の際に一族に殉じようとしたが、カヨにより説得され脱出。戦後、木村家殉難者の遺骨を収拾し、法華寺住職の同郷の知人を通じて法華寺に埋葬した。その後も木村家の為に尽力。明治42年(1909年)2月9日没。享年82歳。

この日は木村兵庫の子で、戊辰時中軍護衛隊の隊士でもあった木村丑徳が建立したもの。

       ****20207月時点で現存確認できず****
鈴木為輔墓>
 会津藩士佐藤豊助の三男として文政11年11月14日赤津村(現在の郡山市湖南町)の御代官所官舎で生まれた。幼名は継吉、又は廣五郎。
 天保10年2月、継吉12歳の時、鈴木嘉右衛門善重の許に養子入籍4月には相続する。それから継吉より名前を改めて善道と称する。
 その後、会津藩が京都守護職を命じられると、元治元年為輔は機密取調御用(スパイの役目)を任じられ、池田屋事件などで活躍。蛤御門の変がおこると林権助隊のとして警備にあたり活躍。戊辰戦争が起こると青龍寄合一番組に入れられ、会津・二本松藩領付近での官撫工作を行い、8/13横川の戦いに参加。その後8/23に村人より若松城下に既に敵が侵入したという注進を聞き、城下に戻る事となりなんとか入城。その後籠城中に何度か出撃、8/25には功労により軍事方勤を申しつけられ、近習一之寄合に進級。 9/20に御軍事方勤を仰せ付けられ、川村三助と共に、開城の使者を仰せつけられる。 百姓の姿に紛争し、生捕にした土佐藩の人足「作吾」に案内させなんとか到着し役目を果たす。 墓地内に鈴木家の墓は一つのみで、これは為輔の孫嘉雄が建てたもので、為輔の法名は「英邁院善道日巍居士」

 

 

 

自在院

⇒自在院への交通
会津若松駅よりバス「相生町」下車目の前。
拝観自由/入場無料

福島県会津若松市相生町 2-18

 自在院は古くからある寺で、戊辰の際には白虎隊足軽隊の古川深松(14)が8/23自刃した場所でもあります。
 墓域には、西軍兵士の戦死合祀墓もあります。
 
西軍戦死者墓>
 背面の文字は、殆ど磨耗してしまって半分程が読み取れない状態ではありますが、戦死者6名の合祀墓と思われます。土佐藩・佐土原藩・軍卒者などとなっています。城下戦での戦死者です。
 本堂の丁度真裏辺りにひっそりと建っています。

 

 

真龍寺

⇒真龍寺への交通
会津若松駅前からバス「千石ニュータウン」下車徒歩。
拝観自由/入場無料

福島県会津若松市行仁町

 真龍寺は河井善順縁の寺で、河井善順や柿沢勇記の墓なども境内に有り。
上の写真の門は、戊辰戦争でも焼け残ったもので、幕末以前のもので味わい深い立派な門。
 浄土真宗本願寺派の寺で、正式には「水登山真龍寺」という、開山は天正3年(1575年)。
 
河井善順墓>
 河井善順は明治維新に大きく係わった人物で、禁門の変の際、丁度会津から西本願寺に留学中で、西本願寺に匿われた長州藩士の引渡しで会津藩と西本願寺が揉め、会津藩兵が焼き討ちをしようとするのを調停したり、会津藩降伏後、越後にいた奥平謙輔から秋月悌次郎への書簡を預かり、謹慎中の秋月に届け、秋月・小出を後日山川健次郎・小川亮等を新潟まで無事に連れて行っている。
 また、のち思案橋事件・萩の乱を起す永岡久茂・前原一誠も現在河井善順と共に写っている写真が残っている事から、河井善順を通じて出合ったのではとも思われる。
 
柿沢勇記墓>
 柿沢勇記は、森長蔵近好の五男で、柿沢勇八の養子となる。
名は重任。京都守護職時代は、公用方として活躍。
 戊辰戦争の際は伝習隊第二大隊参謀として奮戦、宇都宮の戦いで両股を打ち抜かれる重傷を負い、4/25日光にて絶命。享年36歳。
 墓が日光の観音寺とここ真龍寺にある。
 真龍寺は柿沢家の菩提寺と思われるが、係累が絶えているらしく、無縁仏となりかけている。位置は丁度本堂の裏手に位置する。