田島陣屋跡(会津田島)



⇒田島陣屋への交通
会津鉄道「会津田島駅」より徒歩5分程度町役場前
拝観自由/入場料無料

福島県南会津郡田島町大字田島字後原甲3531−1

 幕府直轄領であった南山一帯を統括した代官所のあった場所で、幕末期には、土方と一緒に戦った会津藩士秋月登之助(江上太郎)の父江上又八が代官であった。
 宇都宮で破れた秋月や土方は、会津領に向かい、途中4/26に田島陣屋に到着、のち若松に向った。




 

慈恩寺(会津田島)



 
 慈恩寺にある「官軍戦死19人墓」。駅から歩いて5分くらいにあります。本堂の裏側になります。
 新政府軍に占領されるも、9/9に新政府軍の傍若無人振りに地元住民が立ち上がり、会津軍が大内宿奪還するのに呼応し、西軍陣屋を地元農兵が攻め、その際討ち取られた新政府軍兵19名の墓である。

福島県南会津郡田島町字後原

拝観自由/拝観無料

 






龍福寺



⇒龍福寺への交通
会津鉄道「湯野上温泉駅」より徒歩90分、若しくはタクシーで20分
非公開(拝観の際は要問合せ)

福島県南会津郡下郷町大内

 龍福寺には芸州兵が宿営した時に落書きした「芸州藩二番隊」の逆さ文字が残っている。
 公開はしていないので、アポ無しで押し掛けないようお願いいたします。
 本堂のふすまに残された新政府軍の『芸州藩弐番隊』の落書き。
 さかさまに書かれているのは、襖を取り外して伏せていた際に書かれた為と思われる。
 本堂には会津藩の画家萩原盤山の絵が多く残されていて、この萩原盤山は自らの落款をする際に、すべて書体を変えたという事で、残されていた絵の落款もすべて書体が違いました。素晴らしい絵が多かったです。

 慶応4(1868)年8月29日、肥前・芸州・大田原・宇都宮の四藩からなる西軍二千の兵は田島に攻め入った。


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大内宿



⇒大内宿への交通
会津鉄道「湯野上温泉駅」より徒歩90分、若しくはタクシーで20分
拝観自由/入場料無料

福島県南会津郡下郷町大内

 会津若松から今市へ通じる会津西街道の宿場町の一つで、会津から江戸への産物の運搬路であったが、普段は余り通行量が多くなく、宿場の人々は半農半宿の生活であった。
 明治17年に会津三方道路の開通により会津西街道は現在の121号線になった為、現在も都市化されず昔の姿を留めている。
この地にも戊辰戦争の戦火が迫り、慶応4年9/1、西軍と会津藩が大内ダム周辺で激しい戦いを繰り広げられました。
 大内宿奥にある「正法寺」の墓地に建立されている「笹沼金吾」の墓。
笹沼金吾は御目付役笹沼金兵衛の弟で、会津藩砲兵隊頭取。慶応4年8月30日大内宿に迫った西軍に対し、会津兵は奇襲をかけるも、薩兵砲兵隊の反撃に遭い後退、大内峠での迎撃作戦を立てるが、この大内峠での戦いは野村悌之助等40名が戦死する激戦となり、金吾は独り大内宿に残留し、水車小屋に潜みゲリラ戦を展開し、壮絶な戦死を遂げた。(享年35歳)

 『時に砲兵隊の部将笹沼金吾踏み止まり路傍の叢中に潜み、敵兵過ぐるを待ち刀を揮って躍り出で、数人を斬り伏せその身亦数創を負うて死す』
 (会津戊辰戦史より)

 正法寺本堂裏の墓域に向って中心に登る道があり、その道の左側の中段辺りの古い小さい墓石が並んでいる中の一番手前。

拝観自由/拝観無料




戦死二十四人墓(大内ダム)



⇒大内ダム(戦死二十四人墓)への交通
会津鉄道「湯野上温泉駅」より徒歩120分程度、
若しくはタクシーで30分
拝観自由/入場料無料

福島県南会津郡下郷町大内

 大内ダムは幕末当時は大内沼だった場所で、現在は阿賀野川の洪水対策・水力発電として利用されている。
 
大内宿から大内ダム方面に県道131号沿いを進み、大内ダムに少し入った右手の坂の入り口の案内板が建っているので、そこを登って行った行き止まりの広場の奥にあります。
 碑には「慶応戊辰年(1868)9月1日より翌未明に亙り日光口守備隊長山川大蔵は、大内峠に據(よ)り官軍佐賀・宇都宮・大田原の各藩の兵を迎撃す。この藩斗で宇都宮藩大沢富三郎以下24名の戦死者の霊を供養せんと地元有志にて茲(ここ)に墓碑を建立せり」とあり、明治42年の建立で23名が新政府軍、1名が会津兵・小出勝之助のものであるという。





奥会津博物館



⇒奥会津博物館への交通
会津鉄道会津山村道場駅→徒歩10分
料金
入館300円営業時間916時
定休日
火曜(祝日の場合は翌日)

福島県南会津郡南会津町糸沢字西沢山3692−20
http://www.okuaizu-m.jp/index.php
 奥会津博物館の中に、山王峠に昔あった「山王茶屋」が移築されて残っている。(HPによると、どうやら古民家レストラン山王茶屋としてこのH21年秋より再Openするとの事)
 元和2(1617)年頃創建であったが、西軍により戊辰戦争の際に焼かれ焼失。翌年焼失前と同じ間取りで再建したという。
 慶応4年閏4月5日、大鳥圭介は著書にて「五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。」とあり、この茶屋で大鳥圭介と山川大蔵が会談した事を記している。



宇都宮藩士墓(栃沢)

 

 栃沢は会津本郷町最南端の集落で、下郷町と大内峠・氷玉峠を境界とし、中心市街地から8km、関山の集落からは3kmの処にあり、標高424mで、氷玉峠の麓に位置する総戸数6戸、30人が暮す小さな集落。
 古くは下総街道の宿場町として関山と共に下郷町の大内宿からの往来等で賑わっていたものの、戊辰戦争と明治の2度の大火で全焼しています。

 氷玉川の南方の谷間に戊辰戦争で斃れた宇都宮藩士の墓があります。
県道131号線沿い、若松方面に向って左側に栃沢集落の説明版があり、その説明版を過ぎて少しの処の右側に氷玉川と131号が交わる箇所に畑があり、その奥に古い墓石の広がる墓地があり、その墓域の一番手前側に木が立っており、その根元に右写真の墓があります。
 どうも外にも会津藩兵や戊辰戦死者の墓があるようなのですが、古い墓が多くどれだか解りませんでした(==;)

福島県大沼郡会津本郷町氷玉栃沢甲

拝観自由/拝観無料





戦死四十人墓(関山)



 この関山(会津本郷町)でも9月2日〜3日に渡って激戦が行われ、東軍・西軍とも死傷者続出し、東軍では青龍足軽三番隊中隊頭野村悌之助、渥美守太郎以下40名が戦死、また、関山の民家は西軍の進軍を食い止めるため火をかけられ全焼しました。最初は賊軍の汚名を着せられていた為、自然石によって祀られていたものを、のちに現在の墓石に建て替えられたもの。

 この戦死四十人墓もやはり県道131号沿い、若松方面に向って右側の路肩関山の地に建てられています。

福島県大沼郡会津本郷町氷玉関山甲

拝観自由/拝観無料





白鳳山(会津本郷町)



⇒萱野隊長之碑他への交通
磐越道会津若松ICより会津本郷町方面へ25分
拝観自由/入場料無料

福島県大沼郡会津本郷町

<萱野隊長之碑> 

 会津本郷町にある、本郷焼資料館の前の観音山への入り口を登って行くと白鳳山公園がすぐ有り、その頂上にひっそりと説明版も無しで建てられています。  この碑は、戊辰北越戦争に従軍した本郷焼の陶工達が、隊長であった萱野右兵衛を偲んで大正6年に建立したもの。

近くには会津藩主芦名盛氏が築城したという向羽黒山城跡もあります。

 

福島県大沼郡会津本郷町船場4350-1(白鳳山公園内)

拝観自由/拝観無料

 
<明治戊辰戦役萱野隊記念碑>

 昭和32年9月24日に行われた「戊辰戦役90年祭」に、萱野隊士柏村善平の孫によって「明治戊辰戦役萱野隊記念碑」が寄進され、観音山の頂上に3つの碑が並んだ。

拝観自由/拝観無料

 <死節碑>

 萱野隊の生存者によって、明治28年8月に建立され、題字を松平容大が、碑文を南摩綱紀が受け持った。
 碑文には「(略)明治戊辰の乱、敵を四方に受く。本郷の人、遠藤、岸、栗城、進藤、小川、佐藤の諸氏、萱野右兵衛隊長に随って越後に力戦して没す。(以下略)」とあり、裏面には「萱野隊寄合組ノ内此地在住士」の36名の名前が刻まれ、上段は戦死者、中段・下段は生存者の名前が刻まれている。

 大正5年の大火によって、死節碑も灰塵の中に埋もれ、大正6年に復興し、合わせて「萱野隊長之碑」を新たに建立した。

拝観自由/拝観無料




山王茶屋跡



⇒山王茶屋跡への交通

福島県南会津郡下郷町

 県道121号(南山通り)沿いにある山王茶屋があった跡である。(現在茶屋は「奥会津博物館」に移築されて現存している)
 元和2(1617)年頃創建であったが、西軍により戊辰戦争の際に焼かれ焼失。翌年焼失前と同じ間取りで再建したという。

 
慶応4年閏4月5日、大鳥圭介は著書にて「五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。」とあり、この茶屋で大鳥圭介と山川大蔵が会談した事を記している。