諏方神社(すわじんじゃ)

⇒諏方神社への交通

拝観自由/入場料無料
福島県会津若松市
本町2-50

 諏訪神社ではなく「諏方神社」、何故かというと、葦名盛宗が新宮氏を討とうとした際、信州諏訪の社司に会って軍神の加護のあることを聞き、その後新宮氏が戦わず降伏したので、信州諏訪より勧請した。その際、本社に恐れ多いと「諏訪」ではなく、ゴンベンを取り「諏方神社」とした為である。
 戊辰戦争の際、西軍が城下に進入した8/23西郷寧太郎に嫁いだ黒河内式部の次女やほ子は、姑みね子、祖母なほ子、義姉うら子等と共に、この諏方神社にたどり着き、揃って自刃した場所。
 また、9/14には、侵攻してきた西軍と有賀隊とで激戦が行われ、三ノ丁から二ノ丁に後退した後諏方社内に撤退、融通寺町口を守っていた守備兵が防戦の術なく入城し、米代一ノ丁にて兵を指揮していた田中源之進もまた兵を率いて城に退いてしまった為、敵は益々侵攻し四面より諏方社を攻撃し、有賀隊・遊撃隊悪戦苦闘するも利あらず、死傷者頗る多く、有賀隊は中隊頭有賀総左衛門等兵22人戦死、15人負傷。遊撃隊は組頭安部井彦之助戦死、同北村直衛負傷。

 

 

秀長寺

 

 
世が明治と変わる僅か3日前の慶応4年9月5日、この付近で大激戦がありました。世に言う「材木町の戦い」あるいは「秀長寺の戦い」「住吉河原の激戦」です。
 会津方の指揮官は佐川官兵衛で、長命寺の戦いで破れて以降苦戦続きであった会津軍は遂にこの戦いで大勝利をおさめたのでありました。結果、会津藩は城への補給路を確保し、これ以降の籠城戦を可能たらしめたのです。この勝利以降、城内の籠城兵が気軽に城外へ兵糧を確保に行くことが出来る様になったのであります。

福島県会津若松市材木町 1-10-33

拝観自由/拝観無料
 
 境内にある「秀長寺古戦場碑」この碑の側には「供養塔」と「佐川官兵衛歌碑」(雲水に心はまかせ澄む月の
            法の鏡と世をやわたらむ)
が並んで建てられています。

拝観自由/拝観無料

⇒秀長寺・住吉神社・長岡藩殉難の碑への交通

拝観自由/入場料無料

福島県会津若松市材木町・門田町飯寺

 9月5日の大激戦の舞台となった住吉神社・秀長寺の戦いで会津藩は大勝利を収め、この勝利によって籠城戦後半は城南からの兵糧の補給路が確保出来た戦いであった。

 住吉神社と秀長寺はすぐ近く。

 

住吉神社

 

 9/5、大内・関山を突破した西軍は暁霧に乗じて飯寺に到り、神保隊と激戦を交えるが守りきれず神保隊は材木町に退く、住吉川原に向った西軍と会義隊野田進が戦火を交えるが力及ばず、佐川官兵衛はこれを聞き、兵を率いて川原町に向かい激戦を行い、西軍支えきれず南に退いた。

 この戦いは城下戦で会津藩唯一の勝利であった。

拝観自由/拝観無料
境内には「会津藩戦勝地」という碑も建っています。
この住吉神社と秀長寺に潜ませていた兵による奇襲作戦が成功し、会津藩は城下戦唯一の勝利を収めた場所です。

拝観自由/拝観無料

 

長岡藩士墓

 

 長岡城が陥落し、長岡藩大隊長山本帯刀等は会津に身を投じて再挙を図ろうとするも、飯寺村で朝霧の中西軍を横撃しようとするも、西軍援軍に囲まれ捕われの身となる。西軍の軍監三宮幸庵等帯刀の胆略を惜しみ投降を進めるが「降伏しろという藩主の命を受けていない」として受けず斬首される。その際従者の豹吉は帯刀の遺体を葬ってから死にたいと懇願し、遺骸を葬った後斬首される。共に24歳であった。

 秀長寺前の道を直進し、通りを越えて更に進むと右に本光寺という大き目の寺が見えるので、その前を左折しあぜ道を進んだ畑の中の墓地の入り口に建っています。

拝観自由/拝観無料

 

 

攬勝亭(らんしょうてい)

攬勝亭への交通
会津若松駅より車で10分程度。
現在は私有地になる為、基本的には非公開。
(佐藤歯科医院敷地内)

福島県会津若松市柳原町

 攬勝亭は天元年間に景勝地とされた庭園に、保科正之が名づけ、三代正容が目黒浄庭に改築させた庭園。
 御薬園・可月亭とともに会津三庭とされ、容敬を補佐して信任の篤かった家老で丹羽五郎の曽祖父、丹羽能教が隠居後に住んでいた事もあったそうです。
 現在は、この庭園と茶室(?)位しか残されていないそう。

 木製の表門に僅かに「攬勝亭」の文字が書かれた看板が掛かっています。 庭園内には容保公の
 「風をのみいとひし庭のもみぢばを けふは雨にも散らしぬる哉」という碑が建立されているそうです。(…歌碑らしいのはあったのですが、磨耗しきってて文字が読み取れないので確信が…)