阿弥陀寺

⇒阿弥陀寺への交通
七日町駅より徒歩1分。
会津若松駅よりバス、「七日町駅前下車」すぐ。
拝観自由/入場料無料

福島県会津若松市七日町420

 七日町下車直ぐにある寺で、境内には古写真が掲示されており、それを見るとかつては大仏座像が境内にあった、しかし第二次大戦中の金属供出で撤去され現在は無い。
 ここには、戊辰の際の戦没者合祀墓があり、また、元新選組隊士、斉藤一(藤田五郎)の墓がある。
 
 <御三階>
 明治7年に鶴ヶ城が取り壊された時、現在の阿弥陀寺に移されたもので、外観は3階だが、中2階があって実は4階の構造。2階への梯子は上ったら引き上げられる仕組みだったり、階段が「うぐいす張り」だったりと仕掛けが多いようで、密議などに使われたのではと言われている。
 どうも、現在は内部は物置として使用しているらしく(?)内部の見学は出来ないので、概観のみ見学可。
 弾痕が残っているとのことだったが、何分古い建物の為、どれが弾痕でどれが木材の綻びなのかが私には…。
 
 <新撰組・斉藤一墓>
 幕臣山口祐治の長男として天保15年江戸にて出生する。19才の時に誤って人をあやめて、京都へ逃げたと言われる。京都にて新撰組に入隊し、三番隊隊長となり、剣技は沖田総司にも劣らないといわれる。池田屋事件や谷さん十郎や武田観柳斎の暗殺や、高台寺党の密偵等で活躍する。
 鳥羽伏見の戦いの後は、土方に従い会津入りし、白河の戦いや母成峠の戦いなどに活躍、土方が仙台へ去った後も会津に留まり、会津藩降伏後も会津藩士と共に謹慎。釈放後は藤田五郎と名を改め、松平容保や佐川官兵衛の仲立ちにより、会津藩士の娘、高木時尾と結婚。
 警視庁に勤め、西南戦争等を経て、警部となり、退職後は東京女子高師の職員等を勤める。
 この阿弥陀寺に埋葬された要因として、妻時尾が、戊辰役戦死者の埋葬に尽力した為であるともいう。
 <東軍戦死者墓>
 会津戦争が終結後も、東軍兵士の骸は埋葬する事を許されず、埋葬許可が下りたのは年が明けた2月のことであった。
 また、埋葬箇所も当初は罪人が埋葬される小田山下と薬師堂河原に葬るとのことで、取締りとして残留していた高津・町野は寺院に埋葬出来る様民政局に嘆願すると、黙認すると言う事で、阿弥陀寺と長命寺に埋葬する事になった。藩士達は方々を駆けずり回って三千両を工面、伴等が穢多の如く変装し配分する事となり、民政局は黙認する事となった。阿弥陀寺には大庭恭平の字で「殉難之霊」という墓標を建て、ささやかな拝殿を建立するが、民政局より、即刻撤去せよと命令が下り、幾ら嘆願しても許可されず、ついに撤去される事となった。

 

渋川問屋

 

 <渋川問屋>
 七日町通りに面する「渋川問屋」は明治元年に創建された海産物問屋だった処で、最盛期は身欠きニシンの全国の相場を決める程の勢力を誇った旧家。流通が発展し問屋としての営業が成り立たなくなり廃業。のち蔵を改造し、料理旅館として営業を始める。
 また、昭和11年2月26日に、陸軍の青年将校1483名が起こしたクーデター未遂事件である二・二六事件に唯一民間人で参加し処刑された「渋川善助」の実家で善助が少年時代を過した「憂国の間」と呼ばれる部屋も残されています。

 こちらでは旅籠営業の他に、郷土料理も頂く事が出来ます。
 メニューは祭り御膳(鶴)で、(食前酒・にしんの山椒漬・にしんの昆布巻・棒たら煮・紅鮭の押し寿司・こづゆ・にしんの天ぷら・季節の混ぜごはん・そば粒がゆ・水菓子)是非一度ご賞味あれ。

 

 

満田屋

 

 <満田屋>
 江戸時代末期の味噌蔵を改装した建物で、店内入ってすぐの広間では、沢山の種類の味噌が売られ自分の好みの味噌を購入する事が出来る。(右写真は柚子味噌)
 奥の店内では、田楽を楽しむことが出来、注文すると店内の囲炉裏で焼き上げられ運ばれてくる。田楽は素材にあわせ味噌を替えて飽きない工夫がされている。

 

 

 

清水屋跡

 

 <清水屋旅館跡>
 七日町通りのファミリーマート近く、大東銀行前に左写真の碑と案内板が建てられている。清水屋旅館は新撰組ファンには馴染み場所で、宇都宮戦争で負傷した土方歳三が、ここ清水屋にて治療を受けた場所で、またそれ以外にも、吉田松陰が東北地方を遊歴した際に記した「東北遊日記」に記載された七日町の宿というのが、この清水屋旅館で、また、戊辰戦争が終わった後の明治15年には、三島通庸の会津三方道路建設に反対する自由民権運動家宇田成一等が、この清水屋に宿泊中に、町野主水等帝政党員等に襲われ重傷を負い、国事犯として捕えられ、その事が原因で喜多方事件が勃発したという、歴史を刻んだ旅館でした。
 木造三階建ての旅館は、惜しまれながら昭和初年に取り壊されました。

 

 

融通寺

⇒融通寺への交通
JR会津若松駅より徒歩10分
JR 七日町駅より徒歩15分。
会津若松駅よりバス、「伝承館前」下車すぐ。
拝観自由/入場料無料

福島県会津若松市大町2丁目7-45

 もと融通寺町(現在の本町)にありましたが、文禄年間に蒲生氏郷による城下町整備の際に現在地に移され、蒲生秀行はこの寺を菩提寺と定めて、京都知恩院の末寺とし、1604年、後陽成天皇から扁額と宸翰の和歌を賜り、それより勅願寺となりました。
 木造扁額「融通寺」はその勅額です。戊辰戦争のとき、この寺は西軍の本陣が設けられたため戦火を免れましたが、本堂の柱には刀の傷痕が残されています。
 
 <町野主水墓>
 1839年生まれ。320石、通称源之助。元治元年、京都に向かう途中、桑名藩士を斬り、到着後入牢。蛤御門の戦いに牢を破り、一番槍で活躍したが、津川で謹慎となる。戊辰戦のとき、会津藩領、越後の小出島の奉行を命じられ、三国峠の藩境の守りにつき各地を転戦。その間、家族5人が河沼郡の山中で自刃。戊辰後は高津や伴等と共に戦死者の埋葬に尽力。
 また、帝政党員となり、三方道路に反対する自由民権家の宇田成一等を清水屋にて襲撃するなど、三方道路の建設にも尽力。晩年には会津弔霊義会の発起人ともなり、会津の慰霊・復興に尽力した。
 
 <町野家自刃婦女子墓>
 町野主水は小出島の奉行を命じられ、弟の町野久吉と共に赴任、三国峠から小出島で激戦、弟久吉を三国峠にて失う。
 そして、家族も8/23の西軍の城下侵入の際入城出来ず、一旦勝方村へ退いていたが、しかし、勝方村の某が、町野主水が山三村にて討死したという虚報を伝えた為、主水の母きと子(47)や姉ふさ子(31)は死に遅れたと思い自刃、妻やよ子(24)も、三歳の長男源太郎を刺し殺し、二人の後を追った。長女なを子(7)は「祖父様のお顔を見てから、お母様の後を追いたい」と言い張るので、妻やよ子から介錯を頼まれていた大竹豊之助は「では、無事入城出来ますように、東の方に向って、お城を拝んでみて下さい」と言って、東方を拝むなを子の首を打ち落とした。

 

 


左上「町野主水墓の裏面」、右上「自刃婦女子墓側面」、下「自刃婦女子墓背面」

 

 

実成寺

⇒実成寺への交通
JR会津若松駅より徒歩7分
JR七日町駅より徒歩15分。
会津若松駅よりバス、「伝承館前」下車すぐ。
拝観自由

福島県会津若松市大町2丁目6-35(地図

 融通寺直ぐ近くの「町方蔵しっく通り」沿いにある「実成寺」は乾元2年(1303)の建立で、開基は日蓮正宗第3祖日目上人の弟子日尊師。開基檀那は藤原実成と伝えられており寺号の由来となっている。山号は久遠山。戊辰戦争で戦火にあった。
 また、会津藩家老九家の一つ「梶原家」の菩提寺でもある。
 <梶原家墓所>
 本堂裏の左写真にあるように、大きな木の根元に梶原家(平馬の系統)の墓所がある。この実成寺は梶原家の菩提寺で、ここには梶原家4代目梶原伝蔵景儔、5代目梶原平馬景保、其々の妻、あと関係が不明ながら梶原権八景義の墓、あと一基損傷が酷く読取れない「梶原景○妻墓」の計6基がある。 墓石が一番大きな梶原平馬景保は、明和2年1月4日生、岩之助。左門・典膳。安政7年に跡目を継ぎ、文化5年正月10日には番頭として蝦夷地警備の為利尻に向かい106日間駐留、同年7月帰国した。後に若年寄を経て家老となっている。 天保10年6月6日に75歳にて死去。

 

 

西軍墓地(東明寺)

 

 <西軍墓地>
 会津戦争の際の西軍の戦死者の大部分が埋葬された西軍墓地。広さ680坪に9藩百五十一名の戦死者が埋葬されている。現在は東明寺墓地であるが、当時は隣の融通寺墓地であった。 戊辰戦争の際、天寧寺町一条院の住職が融通寺を訪ねたところ、西軍に捕えられ西軍戦死者の回向を命ぜられ、現在の地に各地での戦死者を埋葬したという。明治8年に若松県を廃して福島県に合併されると、招魂者も福島に合併して建物も無くなり、墓地だけが残った。その為その後は融通寺に委嘱して官修墓地として管理されていた。

 

 

 

町検断簗田家跡

⇒町検断簗田家屋敷跡への交通
★会津若松駅よりバスで
 
「野口英世青春館前」下車直ぐ
福島県会津若松市

 商人の頂点である町検断はであった簗田家は康暦元年(1379)葦名直盛に従って会津入りし、以来商人司職を与えられ、保科正之入部以降も大町検断を務め、町検断職の筆頭として城下町の行政の一端を担当、若松商人の株仲間を統括するなど、会津領内の商業・商人と統括した。

 

 

長命寺
⇒長命寺への交通
会津若松駅前の道を直進。
駅から「はいからバス」等の循環バス等の
飯盛山行きのバスも出ている。
拝観自由/入場料無料(記念館・史学館は入場料有り)

福島県会津若松市一箕町飯盛山

 
 <弾痕の残る塀>
 
 <戊辰戦役会津藩士戦死者之墓>