小田山

⇒小田山西軍砲陣跡への交通
会津若松駅から出ているバスで「花見ヶ丘」下車
拝観時間自由/拝観料金:無し

福島県会津若松市花見ヶ丘(小田山中腹)

慶応4年(明治元年)8/26、西軍は城下極楽寺の僧の内通によりここ小田山に陣をはり、城への砲撃を昼夜問わず落城までの1ヶ月間絶え間なく行った。小田山から城への距離は僅か1.6kmしかなく、鍋島藩のアームストロング砲などに城兵は悩まされ続け、戦後、内通が藩士の知るところとなり、謹慎所から脱走した武田宗三郎によって惨殺され、武田も処刑された(享年20歳)
 
 <丹羽能教墓>(丹羽家墓地)
 小田山の遊歩道沿い、頂上の手前に開けた土地があり、そこに丹羽家歴代の墓があります。そこにひと際目立つ大きな墓石が丹羽五郎の曽祖父で、五郎が北海道の丹羽村を造る際に大きく影響を及ぼしたと思われる「丹羽能教」の墓。
 能教は丹羽家中興の祖で、能教が家督を継いだとき、丹羽家は400石で、代々の家老の家柄であった訳でもないが、彼の手腕・力量により一代で1000石を賜り、家老を拝命した人物。
 また、猪苗代の駅に近い「打越」「富永」という2つの集落「南土田」と呼ばれる土地を開拓し、土津神社の祭田に加え藩に献上するなどし、また蝦夷地警備(唐太)や相州警備にも活躍した人物。
 会津藩中興の祖と云われる松平容頌に仕え、家老としての藩政改革を行い、名宰相と謳われた人物「田中玄宰」の墓。
 
会津藩は天明の大飢饉に遭い、危機的な状況にあり、藩財政も悪化、容頌は病気にて引退していた玄宰を再登用し、一年後に藩政の大改革を行い、大きな成果をあげた。また、藩校「日新館」を創設、会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。

 また、容頌の跡を継いだ容住が病弱で、嫡子容衆もまた病弱であった為、玄宰は水戸藩から高須藩に養子縁組が決まっていた松平義和の子をこっそり貰いうけ、在位五ヶ月で容住死去直後、容住の侍女が産んだ子として幕府に届け、容衆が在位16年で無くなった後その子容敬が跡を継ぎ、会津藩お取り潰しを免れる事となった。 玄宰の墓は「城と日新館の見えるところに埋めよ」という遺言どおり小田山の山頂に築かれた。
 
中世における初期の葦名氏の居館および詰の城。資料や地名などから、葦名氏が会津に入部した頃、宝積寺の辺りに居館をもちその東南方の現在の小田山山頂を中心にした詰の城としての山城を合わせて小田山城と総称していたものと思われる。山城の規模は明確でない。(会津若松市HPより)

 小田山城址の碑は田中玄宰の墓を通り過ぎ進むとひっそりとあります。また、この小田山には葦名氏の墓所もあり、葦名氏縁の地です。
 夏にこの場所に行く時には、是非虫除けスプレーをお持ち下さい☆

拝観自由/拝観無料 
 <物見櫓跡>
 小田山城址碑から更に奥に進んだ所にある、小田山城物見櫓跡よりの会津市街の眺め。

 

恵倫寺

⇒恵倫寺への交通
会津若松駅から出ているバスで「花見ヶ丘」下車
拝観時間自由/拝観料金:無し

福島県会津若松市花見ケ丘3丁目3-8

 柴家の墓へは、とにかく、上へ上へ登る登る。登って小田山の遊歩道脇(手前)にあります。遊歩道に出てしまった方が解りやすいかもしれません(案内板が出ています)
 山門をくぐった先には、春には二色の桜が咲き、桜を密かに楽しむことも出来ます。

 

 
 <柴五郎墓>
 明治に陸軍大将として活躍した柴五郎の菩提寺「恵倫寺」で、小田山にある。
恵倫寺の墓域をドンドン登って、小田山ハイキングコースに出て右に歩くと、コースの右に柴家墓所の案内が出てくるので、それに従うと柴家の墓域にたどり着く。鬱蒼とした茂みの一角にあり、明るい時間に虫除けスプレー持参で行くことをオススメする☆

 柴五郎は、戊辰戦争の折若干8歳で、長男太一郎は軍事奉行として越後へ、次男謙介は山川大蔵の麾下として栃木方面へ、三男五三郎は佐川官兵衛麾下として越後方面へ出兵しており、四男茂四郎は白虎隊に編入せられるも病気にて家で養生していたが、母は無理やり起し出陣させ、五郎を叔母に託し面川に退避させ、一家の婦女子は8/23の西軍城下侵入の際自刃して果てる。

 面川沢の別荘にて開城を聞き、のち東京に俘虜として収容された後の明治3年6月に兄太一郎と共に斗南へ移り辛苦の生活を送り、明治5年6月東京へ留学。
 山川家にて居候し、明治6年陸軍幼年学校に入学、明治33年には北京駐在武官として義和団事件に巻き込まれ、北京籠城し2ヶ月にも及ぶ籠城戦を凌ぎきり、各国からの賞賛を浴び、大正8年に陸軍大将に進み昭和20年87歳没。

 <柴太一郎墓>
 五郎と同じ墓域にある長兄柴太一郎の墓。
 柴太一郎は、京都守護職時代には「公用方」として活躍、戊辰戦争の際には軍事奉行として越後方面へ向い奮戦、しかし利無く若松に引上げた後、各地に転戦、9/19の一ノ堰の戦いで負傷し、五郎の避難する面川沢の別荘に来て開城を迎える。
 五郎と共に東京の俘虜収容所に収容され、明治3年6月に五郎と共に斗南藩に移住する。斗南は不毛の地にて、すぐに斗南藩は食うモノに困り、藩は協議の末、太一郎を使者に函館のデンマーク領事ブリキストンより糧米を購入するも、仲介の貿易商人が藩よりの支払金を横領し逃亡。
 領事は斗南藩に賠償請求、太一郎は藩に迷惑のかかるのを恐れ、自らの仕業として主張するも、デンマーク領事は藩の責任と、太一郎を東京に護送、藩は太一郎の義侠により多額の賠償を逃れ、司法当局も同情し、寛大なる禁固の刑に処され、7年に渡り禁固され、明治9年保釈される。
 
 <柴四朗墓>
 柴五郎の兄で、「東海散士」のペンネームで「佳人之奇遇」という政治小説を著した事で有名。戊辰戦争では白虎隊に配属。敗戦後は謹慎の後も東京に残り勉学を続け、のち西南の役に従軍して記事を新聞に送り,知遇を得てアメリカに留学,ハーバード,ペンシルベニア大学などで経済学を学ぶ。

 

建福寺

⇒建福寺への交通
JR会津若松駅より会津バス市内4コース
「建福寺前」下車、徒歩3分。
拝観時間自由/拝観料金:無し

福島県会津若松市建福寺前7-3

 この建福寺は、桜の時期になると「建福寺のしだれ桜」が美しい。
 長岡藩総督河井継之助が仮埋葬された寺でもあり、また戊辰後には丹羽五郎の家族が上京するまで寄宿していた場所でもあります。
 本堂から墓地は離れており、墓地近くには綺麗な桜の大木もひそかな桜の穴場。
 
 <長岡藩総督河井継之助埋骨遺跡>
 建福寺本堂から墓域は離れており、本堂前の通りを直進し、突き当りを右折、更に左折すると墓域が現れます。そこに「河合継之助埋骨之遺跡登山口」の案内板があるので、そこからひたすら登る。そうすると上りきった辺りの北原家墓域手前に右写真の碑が。
 戊辰戦争北越戦争で銃弾を受け、八十里を越え、只見で没した河井の遺体は火葬され、一旦この建福寺に埋葬され、後に改葬されました。

 

 

善龍寺

⇒善龍寺への交通
JR会津若松駅より会津バス市内4コース
「建福寺前」下車、徒歩10分。
拝観時間自由/拝観料金:無し

福島県会津若松市北青木13-33

 天台宗の能城山持明院善龍寺は寛永年間に開山。特徴的な山門は、市の重文となっており、楼上に西国三十三観音木造が祀られており、戊辰戦争の際、本堂等は焼失したものの、山門は西国三十三観音が祀ってあった為に焼打を免れたという。
 墓地には、戊辰戦争の際に西郷邸で自刃した婦女子を祀った「なよたけの碑」や西郷頼母夫妻、西郷邸自刃者二十一名の墓、他にも多くの著名人の墓が存在する。

 

 
 善龍寺は小田山の西麓にあり、山門と奈代竹の碑が有名である。
 天正18年保科氏が下総に、曹洞宗善龍寺を創立したのが始まりで、のち信州高遠、さらに山形最上に移る。のち会津移封となり、寛文年間に現在の北青木の地に移った。

 この善龍寺は会津藩家老西郷頼母一族の菩提寺で、西軍が城下に侵入した8/23に西郷頼母の婦女子は自宅にて籠城して足手まといとならぬよう、一家で辞世の句を作り自刃した。
 戊辰戦争で自刃した婦女子233名の追悼の記念碑が昭和3年に建てられ、西郷頼母妻千恵子の辞世の句「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」から「奈代竹之碑」と名づけられ、裏には自刃・戦死した会津藩女性の氏名が刻まれている。

 
 善龍寺の墓域奥の西郷家歴代の墓域にひっそりとある、家老西郷頼母と妻千恵子の墓。
 恭順派であった西郷頼母の婦女子は、西軍の進入した8/23に長男吉十郎を城へ行かせ、一家で自宅にて自刃。
 西郷頼母の母律子(58歳)、妻千恵子(34歳)、義妹眉寿子(26歳)、由布子(27歳)、長女細布子(16歳)、次女瀑布子(13歳)、三女田鶴子(8歳)、四女常盤(4歳)、五女季子(2歳)、そして親族等計21名が自刃した。
 
 <赤羽四郎墓>
 西郷頼母の墓を通り過ぎて直ぐに、妻の墓と並んで建立している。
 白虎隊士の一人で、戊辰戦争降伏直後には、山川・水島等首脳陣に命じられて、山川健次郎、柴四朗、高木盛之輔、原マ三郎の4少年と共に西軍の本営に行き藩主容保の安否を尋ねてくる様命じられ、9月末、謹慎所の猪苗代を抜け出し本営に行き、『藩主を案ずる余り、自分達だけの了見で尋ねて来たもので、参謀に合わせて貰いたい』として願い出た。接見したのは土佐藩の板垣退助の部下伴中吉という人物で、伴は湯島聖堂に学んだ人物であって、逆に旧知の水島・浮洲・米澤氏の安否を尋ねられたという。この事は、西軍総督本営の一部には「禁を犯して猪苗代を脱走したのは不屈至極であるから、厳罰に処するべきである」という意見があり、一部には「未だ年端も行かない少年達が健気にも主君を気遣って来たものであるから、武士の情誼に悖る事であり、宜しく慰撫すべきである」という意見があり、結局温情論が大勢を占めて赤羽等は、土佐藩兵等に護衛され猪苗代に送り返されたものである。
 
 <西郷家自刃の際の自刃者21名の墓。>
 頼母の墓から行くなら、赤羽四郎の墓を過ぎ、更に奥に入り、山斜面に奥に入るうっそうとして入り口があり、そこから更に奥に上った所にある二十一人墓。
 もしくは、奈與竹の碑から西郷家の墓所に向う道の二股の分岐点を左に進み、下の伴百悦の墓を左に見て更に進むと左側上に小さい祠と案内板が見えてきます。(こっちの方が多分解りやすいです)
 位置は位置ですが、保護の為の墓を囲う小屋もあり、入り口さえ解れば見つけやすいです。
 
  <伴百悦墓>
 二十一人の墓から下に向かって右に進むと直ぐに右上に右写真の墓が目に入ります。伴百悦は勇猛果敢な会津藩士であったが、戊辰戦争後の戦後処理や潜伏する藩士たちの「取締」として抜擢され取締に当たっていたが、放置された遺体を見るに見かねて民政局に嘆願し何とか長命寺と阿弥陀寺に埋葬する事に成功する。その後民政局の久保村文四郎の悪政を憎み高津仲三郎・井深元治・武田源蔵等と束松峠にて久保村を殺害し越後に逃亡する。
 しかし、明治3年6月22日に新津に潜んでいた所を『贋金作り』の犯人と目され村松藩の追っ手によって襲撃され、一人を倒した後自刃して果てている。
 墓は新津の大安寺の慶雲庵にあり、こちらの墓は近年子孫によって建てられたものである。
 <神保内蔵助利孝墓>
 本当は多分「建福寺」の敷地内になるのかもしれませんが、実際には善龍寺からの方が近いので、こちらにUPしました。善龍寺の上へ上る道の上に向って左側の一段低く広がった墓域一帯側になります。道の途中に「二十一人墓」の案内板がある裏側に進み、更にそこから一段下に下りると神保家の墓域があり、その中程にひっそりとあります。

 神保内蔵助は、
内蔵助経周嫡男。家禄は千二百石。子には神保修理、北原雅長、神保巌之助がいる。 1858年若年寄り、1863年家老となる。1862年容保が京都守護職を拝命すると御家老組陣将として上洛。禁門の変には藩兵を率いて出陣し、山崎天王山に退陣した真木和泉等を追撃して真木等17名を自刃させいている。鳥羽伏見の敗戦の後には、修理が将軍・容保等の東帰の責任をとって自刃。会津戦争時には六日町口を守って苦戦、この口が敗れた後、同じく家老田中土佐と共に土屋一庵の屋敷にて自刃。享年52歳。
 
 <神保巌之助墓>
 神保内蔵助利孝の子。神保修理、北原雅長等の弟。
 上の内蔵助の墓の直ぐ近くにあります。
 巌之助は、明治3年に豊前豊津藩(旧小倉藩)に郡長正や木村信二等と共に藩費留学生として留学したが、明治4年5月1日に郡長正が自刃した事により帰藩、山川大蔵や永岡久茂等から「何故一緒に腹を切ってこないのか」と叱られたという。
 
 <生駒五兵衛直道墓>
 上の神保家の墓域の直ぐ向いにひっそりとあります。
 生駒五兵衛直道は知行800石、番頭を勤め、京都守護職時代には、禁門の変には生駒隊は黒谷で留守隊となるが、江戸より井深隊が来た為、これを黒谷守備にあて、蛤御門の応援隊として駆けつけ九条邸にて奮戦する。
 また、鳥羽伏見の戦いの際には、1月3日の戦いで、林砲兵隊より応援を求められるが、陣将田中土佐の指示がないからと応援を断っている。4日には八幡方面の守備にあたり、5日には上田隊・堀隊と共に奮戦、6日には橋本関門を守っていたが、藤堂藩の裏切りにより山崎関門より砲撃を受け応戦するが利あらず退却した。
 会津戦争の際、籠城戦の最中二ノ丸に於いて被弾し戦死した。享年57歳。