大窪山墓地

⇒大窪山墓地への交通
会津若松駅から出ているバスで「花見ヶ丘」下車
拝観時間自由/拝観料金:無し

福島県会津若松市花見ヶ丘(小田山中腹)

 大窪山墓地は、会津藩士共同墓地として保科正之によって創始され、寛文四年に整備された。
 当時藩では火葬の風習を改め、土葬を推奨した。
 この大窪山墓地には約4000基の会津藩士の墓があり、戊辰戦争によって、藩士が四散した為、墓石の倒壊や埋没が目立つものの、これだけの藩制墓地は全国的にも珍しい。

 かなり山中は鬱蒼としてて、特に右の浮洲七郎墓への道は、ほぼ獣道のような状態。特に夏は虫除け必須!

 
大窪山墓地入口全景>
 
<若年寄・横山主税常守墓>

拝観自由/拝観無料

 
<江戸家老・横山主税常徳墓>

拝観自由/拝観無料

 
 <浮洲七郎墓>

 浮洲七郎は天保10年若松城下に生まれ、日新館に学ぶ。のち抜擢されて江戸の昌平校に留学する。
 王政復古の件が江戸に達すると、昌平校の永岡・浮洲等、家老上田学太輔の許可を得て、江戸定詰の学校奉行町田傳八率いる大砲隊とともに上洛を決意、書生隊は即日出発した。
 鳥羽伏見敗戦ののち、江戸に潜伏し日光に遁れ旧幕軍に合流し参謀として戦う。今市の戦いで閏4月21日戦死。享年31歳。弾丸に倒れた際、山川は七郎を案じ助けようとするが、七郎は逆に山川を案じ、自分(七郎)の首を取って逃げるよう頼み、山川は涙ながらに首を落とした。
 七郎は生前、「吾に益者三友あり。永岡久茂の智、米澤昌平の直、高木友之進の勇、是れなり。吾、平生之を慕ふて及ぶ能はず」と語っていたという。

拝観自由/拝観無料

 
安部井帽山墓>
 (1778〜1845)会津藩の儒学者で、安部井褧。日新館の創立にも参与した安部井鱗の養子となる。はじめは古学を主としたが、のち古賀精里の門に学び朱子学を修めた。
 「新会津藩風土記」の編纂に携わり、容敬の侍候となる。当時藩随一の学者であった。容敬の命で「四書訓蒙輯疏」二十九巻を著す。
 京都守護職時代に公用方となり箱館戦争で戦死した安部井政治の養祖父にあたる人物である。
 <高津淄川墓>

 (1785〜1865)高津淄川は儒学者で、高津平蔵。藩命により江戸に出て古賀精里の門に学び朱子学を修めた。藩主容敬・容保の侍候となり、また日新館に関わった。 著書に「終北録」がある。
 (高津仲三郎は子?孫??)