鶴ヶ城周辺

⇒鶴ヶ城への交通
会津若松駅から出ているバスで
「ハイカラさん」⇒鶴ヶ城北口停留所下車
「会津バス」鶴ヶ城まわり⇒鶴ヶ城北口

拝観時間/午前8時半〜午後5時まで(入城は4時半まで)
拝観料金/大人400円(茶室共通券500円)・小人150円

福島県会津若松市追手町

 このあたりは、会津若松の中でメジャーな観光地の為
結構団体客も有り。
やはり若松に来たら、ここは必ず抑えておきたい場所。
天守閣内は資料館となっており、会津の歴史を知る事が出来ます。現在リニューアルされ、とても解りやすく見やすくなりました。
<鐘撞堂>
 西出丸から梅坂を登った左手、雁木坂の頂上にあり、この鐘は文禄元年(1592年)に蒲生氏郷が耶麻郡熱塩村示現寺の鐘を移して建立したのが始まり。現在の鐘は延享四年(1747年)に鋳造されたもの。
 戊辰戦争の際、弾丸が飛来し、鐘守が死傷すると、他の藩士が代わって鐘を打ち、正確に開城までの間時を告げ、城外で戦う藩士は、この鐘の音を聞いて城が無事である事を知り励まされたもの。

 「本丸の西隅に鐘楼あり、(略)城内外の藩士は勿論城下一般庶民に至るまで鶴ヶ城の安全を知らしむ。征討軍之を悪み、鐘楼を破壊せんと欲し、頗るに砲撃を加ふ。当時鐘楼に勤務せし者にして砲弾に斃れしものあり。(中略)我鶴ヶ城に於いても些々たる損害の如きは顧みず之を続行して戦士の士気を鼓舞するべきなりと。大蔵此の言を壮として入れ、開城に至る迄會て時鐘を絶ちし事なしと云う。『会津鶴ヶ城の血戦』より。」

 

内藤邸跡/白露庭

 

 
 鶴ヶ城北口を出た所の交差点の左に、現在裁判所が建っているが、その場所は藩政時代、家老であった内藤介右衛門の屋敷があった場所で、現在も「白露庭」として庭の遺構が残されている。

 この内藤家と向かいの西郷邸との間の場所にて、会津戦争の1868年(明治元年)9月22日に降伏の式が行われ、その際に使用された緋毛氈は、小さく切り分けられ藩士に配布され「泣血氈」と名づけられ、この日の屈辱を忘れまいと誓ったという。

鶴ヶ城北口を出てすぐの所。
拝観自由/拝観無料

 

西郷邸跡

 

 
 鶴ヶ城北口停留所で降りて直ぐの所にある西郷邸跡。
 ここでは1868年(慶応四年)8月23日、新政府軍が城下へ侵入して来た際、西郷家の家族と親族等合計21名が自刃した。西郷頼母は筆頭家老で、京都守護職拝命の際、国元会津より江戸に登り、田中土佐と共に諫止するが聞き入れられず、栖雲亭にて謹慎し、世情が危くなると世子喜徳に召し出され、江戸に登り、江戸引上げの処理を行う。会津に戻った後は恭順を説くも既に遅く、白河の戦いでは総督として戦うも利あらず敗北し更迭される。籠城戦中城を脱し、榎本艦隊に身を投じ函館にて降伏した。

拝観自由/拝観無料

 

興徳寺

⇒興徳寺への交通
会津若松駅から出ているバスで
「ハイカラさん」⇒鶴ヶ城北口停留所下車
「会津バス」鶴ヶ城まわり⇒鶴ヶ城北口

拝観時間/無し 拝観料金/無し

福島県会津若松市追手町

 興徳寺
 
 蒲生氏郷の墓
 
 神明通りから入った所にある興徳寺の墓域にある秋月登之助の墓で、秋月の本名は江上太郎といい、田島代官江上又八の子。
 江戸に残留し、会津藩の回復に尽力するも果たせず、幕府の七連隊に入隊し、のち伝習隊の隊長として土方と共に転戦を続け、会津入りする、8/23に城二の丸付近にて目撃されているものの、其の後の消息は不明。

 この墓は、秋月家・原田家・三原家合同の墓。説明版には「原田家は幕末会津藩家老職である」とあるものの、「幕末会津藩家老」である「原田対馬」は謹慎後の消息は不明で、墓も所在不明。

拝観時間不明/拝観無料

 

ア・ロール

 

 
 神明通りから興徳寺に抜ける通りにあるパン屋と喫茶店が一緒になったカフェ。値段はとてもリーズナブルで、先日行った時カフェオレとプリンを頼んで500円しませんでした♪
 そしてとても美味しいv軽食もやっているので、美味しいパスタなどもあります。是非史跡めぐりの際のお昼などにどうぞv
(明太子のパスタ博多風:670円他

パン屋・軽食・販売/朝7時半〜夜7時(ランチ11時〜)水曜定休