仙台藩殉難碑



⇒仙台藩殉難碑への交通
JR奥羽本線 土崎駅より徒歩40分(車で6分)
東日本高速道路秋田道の「秋田北IC」より車で15分。

秋田県秋田市寺内神屋敷11-6
地図
 秋田藩が新政府軍側に寝返り、奥羽に戦いの火ぶたが落とされる切っ掛けとなった事件、慶応4年7月4日仙台藩使者が秋田藩の勤皇派藩士達により惨殺された。
 仙台より志茂又左衛門、副使内ヶ崎順治、他に山内富治、高橋市平、棟方市七郎、佐々徳之進、川越新蔵、高橋貞吉等が7/1久保田入り、砲術所の志士等3日に集合し、藩論を勤皇に纏める為には使節を殺害するしかないと決し、4日暗殺人員として富山虎之助、遠山直太郎、根本時之進等22名が宿舎を囲み志茂等が惨殺されたのである。
 その時、惨殺された仙台藩士達の供養の為に、明治21年10月に宮城県有志によって建立された。






本敬寺



⇒本敬寺への交通
日本海東北自動車道「岩城IC」より車で約20分
秋田自動車道「秋田北IC」より車で40分。
JR羽越本線「下浜駅」から徒歩15分

秋田県秋田市下浜 長浜字荒郷屋138(
地図
 国道7号線沿いにある「本敬寺」ここは、本敬寺の開祖は朝倉義景の血筋である朝倉道景と云われています。当時は越前の国にありましたが、織田信長に本家筋の朝倉義景が敗れ、比叡山焼き討ちなどがあった為、現在の秋田市勝平に逃れて来ました。元和2年(1616)に勝平から現地に移転してきました。
 現在の家主の方も朝倉義景の子孫だそうで、今でも朝倉家の家宝を持っているそうです。
 
 <松山藩士毛呂太郎太夫正孝戊辰之役長浜戦終焉之地碑
 本来は、↓の墓の場所が戦死の場所になるそうですが、茂みに囲まれ藪になってしまうということで、御子孫が埋葬が大変だということで、平成10年にこの寺に建立したものだそうです。

 毛呂太郎太夫は、松山二番隊の物頭として庄内藩三番大隊と共に出陣、長浜攻防戦で、毛呂は左翼山手進撃先鋒となったが、夜道迷い浜手に近づき、天明に火の手が上がったのを見て毛呂隊突入、毛呂、抜き打ちに先頭の敵を切り、返す刀で次の敵の槍の柄を落とすが、そこへまた脇から襲われ、間合いが近かったので組んで投げ倒し首を掻こうとすると多勢に一斉に銃撃され、首を取れぬは残念と倒れた敵の足を掴んで引きずる時、狙撃にあたり戦死。部下の庄司惣次郎また戦死し、三名負傷。
 庄内側戦死毛呂隊長以下6名、負傷5名。新政府軍側は戦死者秋田8名、佐賀・武雄4名の計12名。

 







 

毛呂太郎太夫墓


⇒毛呂太郎太夫墓への交通
JR大曲駅より徒歩20分程度

秋田県秋田市下浜 長浜地図
 本敬寺前の道を秋田方面に進み、次の信号の細い道を左折し、住宅の行き止まりになった場所の右手に細い未舗装の道があるので、そこを進むと、更に右手に少し開けたスペースがあり、そこに毛呂太郎太夫の墓がひっそりとある。(もしかしたら時期によっては藪におおわれているかもしれません)

 毛呂太郎太夫正孝は文政11年12月4日生、正輝の嫡子で、文武に秀で、27歳の時には命じられ藩士に教授するほどであった。
 文久元年には選ばれて江戸で榊原鎌吉の門にはいり3年後には秘法を授けられるに至り、門下生にして正孝に敵う者なし。
 戊辰戦争で松山二番隊として出陣し、下浜長浜の戦いで戦死。明治15年門人等が謀って松山神社境内に碑を建立する。

 






 


陣笠墓地(五十嵐永吉墓)

 

⇒陣笠墓地(五十嵐永吉墓)への交通
東北道西仙北ICより車で23分。
JR奥羽本線「峰吉川駅」より車で26分

秋田県秋田市雄和神ヶ村陣笠(
地図

 県道9号線沿い、陣笠地区の左の山肌に墓地があり、その墓地の向かって左手の一見墓が切れたように見える木立奥の藪の中に石畳で出来た道があり、その先に左写真の庄内藩士「五十嵐永吉」の墓がある。
 五十嵐永吉は、庄内藩四番大隊、古川六太郎農兵隊士で、8/18の雄物川渡河作戦の最中、新波の渡船場口で終日交戦、五十嵐はこの戦いにて戦死。享年20歳。