長年寺

 

⇒長年寺への交通
J鹿角花輪駅(花輪線) 徒歩8分
鹿角八幡平ICより車で40分
見学自由

秋田県鹿角市花輪字上花輪13地図
 南部御三家、花輪南部氏の香華院として建立されたもので、歴代の当主采地を転 ずるに随い寺もその処を移し号を替え今日に歴史を伝えるものである。
 境内には盛岡藩側の戦死者の戊辰之役戦死者之墓もある。
 
 <戊辰之役戦死者之墓>
 慶応4年8月9日、南部盛岡藩が秋田藩を討つため境界を越えて攻め入ると、十二所・扇田を抜き大館城を陥し、久保田城へ迫ったが、鍋島藩の来援で力を得た秋田藩の反撃にあい、藩境迄退却、其の後諸藩が降伏するに至り、南部藩も休戦を申し入れるに至る。この戊辰戦争での南部藩側の戦死者で花輪に収容された27名の墓。
石鳥屋弥助(23)、高瀬屋仁太郎(22)、村山廉治(26)、荒木田政次郎保定(30)、(桃枝村)市助(54)、
江刺屋力矢(42)、金沢忠太(54)、久慈源次郎(18)、佐々木六助(48)、内田大蔵(32)、東野万五郎(27)、
成田屋与助(54)、和井内捨蔵篤盛(24)、金田一吉太郎(17)、工藤屋佐次郎(22)、立山熊太郎、奈良熊太(42)、
荒木田務(22)、川口猪太郎(23)、川口屋子之助(38)、上田五兵衛(22)、川野次郎治(36)、川守田岩五郎(30)、
高橋亀之助(18)、村上権七(44)、加賀屋卯七(27)、小沼嘉右衛門(32)

 


長年寺

 

⇒恩徳寺への交通
J鹿角花輪駅(花輪線) 徒歩9分
鹿角八幡平ICより車で40分
見学自由

秋田県鹿角市花輪字上花輪11(地図
 この庵は、源平の合戦で戦場の露と消えた主君のために、屋島の修羅場で拾った 阿弥陀三尊を持ち帰った従者が、主君の恩徳に報いる一念で”恩徳庵”として建立 したものと伝えられている。寛永二年長福寺三世龍印本族大和尚を勧請して開創さ れたが、その前身は山号に見られるように、石鳥谷村赤石山腹に建立された”恩徳 庵”を引き継いだものと伝える。
 境内には盛岡藩側の戦死者の戊辰之役戦死者之墓もある。
 
 <戊辰之役戦死者之墓>
 慶応4年8月9日、南部盛岡藩が秋田藩を討つため境界を越えて攻め入ると、十二所・扇田を抜き大館城を陥し、久保田城へ迫ったが、鍋島藩の来援で力を得た秋田藩の反撃にあい、藩境迄退却、其の後諸藩が降伏するに至り、南部藩も休戦を申し入れるに至る。この戊辰戦争での南部藩側の戦死者で花輪に収容された16名の墓。
多田善二郎知値(29)、佐藤熊之助(53)、小泉脇右衛門清寧(42)、青山屋巳代助(24)、中野繁平正忠(28)、
竹林由太郎綱之(24)、箱石千次郎義隆(20)、沢口定之助喜纓(57)、沢口惣八方義(47)、荒川定八正康、
久慈宮蔵親宗(29)、千葉万次郎(17)、浅沼与惣吉、高久春治誠道(33)、附田金左衛門(42)、米白屋由蔵(17)

 

 

 

仁叟寺

 

⇒仁叟寺への交通
花輪線十和田南駅より徒歩35分
十和田ICより車で20分
見学自由

秋田県鹿角市十和田毛馬内字番屋平26(地図
 創建は応永2年に南部氏と縁がある千徳氏が現在の岩手県沢山に堂宇を建立したのが始まりだと言われ、善勝寺と称していました。その後、沢山周辺を支配した桜庭家の菩提寺となり、同家が毛馬内に配置換えと共に明暦3年に現地へ移り名称も仁叟寺と改名しました。山門は当麻館の搦手門を移設したものと伝えられていて、鐘楼は宝永元年に建立された毛馬内最古の木造建築物とされています。
 境内には盛岡藩側の戦死者の戊辰之役戦死者之墓もある。
 
 <戊辰戦歿之碑>
 盛岡藩13名の墓があったが、墓石が風化したため、昭和36年(1961年)に碑を建てて合葬した。裏面には13名分の名前が刻まれている。

 

 

大円

 

⇒大円寺への交通
十和田ICより車で10分
境内見学自由

秋田県鹿角市十和田大湯字大湯147(地図
 戦国期の1522年に山形県大石田町向川寺九世春林禅冬大和尚により開創されたが、建立場所は定かではない。1536年毛馬内城主・毛馬内靭負佐秀範により、当麻館に建立され、毛馬内氏の動向に従って三転し、江戸前期、1643年現在地の大湯に建立、山号を「普門山」と改めた。その後北家の所領となり、明治まで北家の菩提所となった寺。
 この寺には日向内記の娘「ミヱ」の墓がある。
 
 <中村(日向)ミヱ・中村富造墓>
 墓地の老杉のすぐそばに中村家の墓所がある。外柵で囲まれた広い墓所の中央に「霊塔」という大きな石塔があり、その両側に四基ずつの墓が並んでいる。これはあちこちに散らばっていた一族の墓を、成喜(ミヱの曾孫)がこの墓所にまとめたもの。
 右側一番奥に、「高嶽智達圓鑑居士」「観光妙悦恵順大姉」と二人の戒名が刻まれた墓がある。富造は不老倉、ミヱは毛馬内と離ればなれに葬られた夫婦が長い時を経て、曾孫の手によって一緒に眠ることとなったのである。
 日向内記の斗南藩救援工作の為、娘のミヱは大湯に住み「中村商店」という造り酒屋を営んでいたが、のちに大湯の東方「不老倉」に住んだ。中村商店は斗南へ米を密かに運ぶのに、酒屋なら米を大量に運んでも不自然ではない為であった。夫の中村富造は賎ヶ嶽七本槍の一人平野権平の直系の十五代目の子孫「平野吉重」で、上野尻村の諏訪神社の宮司であったが、中村富造と戸籍上偽り、日向内記の斗南藩救援工作に参加した。

 

 

「中村旅館」⇒昭和7年にミヱの孫である「ひさし」(ミヱの長男進の長男の恒)が大湯温泉の川原の湯に「中村旅館」をひらいた。
 ※現在では廃業されたと聞いています。