大川寺

⇒大川寺への交通
JR大曲駅より徒歩10分

秋田県大仙市大曲須和町3丁目1-26
地図

 進撃してきた庄内軍はここ大川寺に8/15本陣を置き、これより花館攻撃に移る。

『翌十五日荘内及ビ仙台ノ兵ハ進ミテ大曲駅ニ至リ大川寺ヲ本陣トシ大斥候ヲ花館ニ出シテ虚勢ヲ張レリ』(仙台戊辰史より)

 
 <大川寺本堂>
 慶応4年8月23日花館では新政府軍と庄内軍で激戦が行われ、その夜庄内軍ではここで軍議が開かれ、そこで副将服部純蔵が少人数での夜襲を進言、その白羽の矢が石原藤助隊に立ち、更に黒谷市郎が名乗りを上げ、両隊にて夜襲を敢行。勝利を確信していた新政府軍は狼狽し薩摩軍の戦死25名手負い16名と大敗、翌朝この本堂にて戦況報告と首実検が行われた。
 『方寸』の石原藤助の書簡には『先月廿三日大曲り村外において終夜戦争の節、組の者纔召連れ花楯村敵中に駆入薩賊の多勢速に追散し指図向も行届抜群の働之趣被仰渡、御加増五拾石被下置三百石高被成下、武門の面目本望の至り(以下略)』
 
 <戊辰役戦死官軍墓>

 角間川の戦いで戦死した新庄藩士、秋田藩士の墓5基。

 【新庄藩士】大場元次郎(8/14二番隊・角間川川岸にて)、好間鐸次郎(同)、鈴木半太夫(8/13長柄奉行・大久保にて打死)、美濃本藤三郎(8/13五番隊)
 【秋田藩士】渡部梅之助(8/13)

 墓地奥に黒御影の石にて左写真の通り案内碑が建立されているので見つけやすいです。

 







八幡神社(島津新八郎戦死記念碑)



⇒八幡神社への交通
秋田自動車道山根ICより車で約15分
JR大曲駅から徒歩15分

秋田県大仙市大曲丸の内町4
地図
 丸子川沿いにある小さな神社の境内に『島津新八郎戦死記念碑』が建立されており、大正14年に田口岩蔵の尽力によって建立された。
 
 島津新八郎戦死記念碑
 島津新八郎久微。薩摩藩士。天保10年生。 宮之城領主島津家の一族。 鳥羽伏見の戦いに参戦し、ついで番兵三番隊長として出陣、8/23の花館の戦いで奮戦し深夜となり両軍共に引き揚げ、その夜の襲撃で打たれる。

 尚、『仙台戊辰戦史』によると
『鹿島兵不意ニ驚キ狼狽シテ散乱ス、此時鹿児島隊長島津新八郎ハ本陣ニアリ大勝利ナリトテ快飲大酔シ、兵ハ皆出デゝアラズ、ソコヘ庄内決死隊ガ抜キ連レテ切リ込ミシ為メ、雑兵等武器ヲ棄テゝ迷惑フ、
新八郎ハ大酔乍ラモ躍起シテ雑兵ヲ叱咤シ大刀ヲ抜キテ庄兵ト切合ヒシモ醉歩蹣跚稍モスレバ蹉躓ス庄兵取巻キテ之ヲ縛リ、散々ニ打敗リテ大曲ニ歸リシハ廿四日ノ天明ナリキ(以下略)』

 







 

長福寺


⇒長福寺への交通
JR大曲駅より徒歩20分程度

角間川町字東本町、字艮、西本町及び藤木字東八圭地内
地図

 ここ大曲で慶応4年8/23庄内藩と西軍の間で激しい戦いが行われた。この大曲の戦いでこの長福寺も焼失した。現在この寺に薩摩藩戦死者の墓がある。
 
境内の墓域にある、薩摩藩兵士の墓。
 8/23新政府軍は花館を強襲し占領。庄内藩第一大隊は苦心の末大曲を防衛、その夜、庄内藩の夜襲により、薩摩藩三番隊長島津新八郎等多くの薩摩藩兵が戦死した。
 すべて薩摩藩士の墓で、12基。
 ●池上平太盛常●金里矢兵衛長善●田畑平九郎常敬
 ●長尾清右衛門景親●中島宗左衛門正寛
 ●長友次郎左衛門安治●日置半之助兼亮
 ●日高曽兵衛為珍●堀内大炊助在徳●本城牛之助輝平
 ●本田市太郎親利●山本治郎兵衛長之

 







 

船通寺



⇒船通寺への交通
秋田自動車道飯田ICより車で約2分
JR大曲駅から車で約10分

秋田県大仙市川目字川目12
地図
 真宗大谷派の寺。 思いの他、小さい寺でびっくり。
 下の阿部千万太の墓は、本堂すぐ脇。墓石も思ったより小さくてびっくりでした。
 阿部千万太は、
8/11大曲付近の敵情視察に出た際、危ないから変装するように忠告されたが『男子が国の為に大任に当たるのに、どうして刀を脱する事が出来よう』と言い切り出かけ、8/13敵中深く入り、追分付近で捕えられ、長州隊長桂太郎の前に引き出される。その際天下の情勢を説いた為、桂は『尋常人にあらざるを察し、徐に陳述するを糺さんと思惟せし」しかし、新政府軍も苦戦にあった為、千万太を顧みる余裕も無く、遂に非業の死を遂げた。高畑の左川端に路傍の梨の木に千万太等の首が掛けられていたという
 
 <阿部千万太墓>
 阿部千万太は文政4年(1821)鵜渡河原(現酒田市亀ヶ崎)に庄内藩足軽阿部多助の子として生まれ、青雲の志止み難く江戸に上がり、東條一堂に入門。経史・国学を学ぶ。同門の高弟烏山新三郎と深く交わって時事を慷慨し、吉田松陰等とも交わったという。嘉永・安政の頃北辺の危機を憂いて松前に渡り、幕府に建白書を上った。
 五万石沼津藩主水野忠誠に儒臣として仕えたが、千万太を妬む藩士に襲われ負傷、忠誠も間もなく急逝した為致仕し、武州八幡山に私塾を開いて子弟を教えたが、大政奉還後の政局の急変を座視しえず、戊辰正月庄内藩に帰参を願い出て許され、7月一番大隊付探索方として従軍。しかし、8/13偵察に出た際、深入りしすぎて処刑された。

 







 

角間川川港親水公園)



⇒角間川への交通
秋田自動車道大曲ICより車で約15分
JR大曲駅から車で約15分

秋田県大曲市角間川町字東本町、字艮、西本町
及び藤木字東八圭地内

地図

 角間川の戦は激烈をきわめ、最初同盟軍側は仙台兵が先鋒を申し出たが、痛烈な攻撃を受け、庄内藩第二大隊が応援に駆けつけ、最終的には庄内藩の圧勝に終わり、翌日新政府軍が逆襲をかけるものの、再度庄内藩に撃退される。
 <角間川港船着場跡碑>
 角間川の戦いで、大敗を喫した新政府軍は、慌てふためき、この船着場に逃げ込むが、庄内藩によって繋いであった船は切り離され、行き場を失った兵達は川に飛び込み溺れ死ぬ兵も多かった。

『郷右衛門又本道ヨリ憤戦シテ角間川エ打入我隊角間ノ後手ナル村々ヲ焼テ追撃ス敵狼狽シテ退走ス渡場ヲ越ントシテ船ニ乗レルヲ味方進テ綱ヲ切テ流シヌレハ敵大勢争ヒ乗タル船ナレハ溺死セル者夥シ我隊敵ノ陣屋ニ入大小弾薬鉄砲等分捕セル』(戊辰庄内戦争録より)

 
 <戊辰之役鎮魂碑>

 角間川の戦いで戦死した新政府軍兵10名の墓があったが、昭和22年の洪水で水没してしまい、後日この古戦場の地に慰霊碑が建立されたもの。(上の船着場跡とは同じ公園内でも場所が違います)橋を渡った川沿い。
 【新庄藩士】山科丹治(8/13)、八鍬嘉七(8/13長柄)、庄司彦次郎(『新庄藩戊辰戦史』に記載無し)
 【秋田藩士】梁慎五郎、石川竹治、登坂鶴治、長谷川久之助、渡部二左衛門、小松助左衛門、阿部重左衛門

 







 

覚善寺

⇒覚善寺への交通
JR飯詰駅より車で8分程度
秋田自動車道 伊岡ICより車で20分。

秋田県大仙市角間川町字小中島18
地図

 覚善寺は寛永17年(1640)に智玄院日恵上人が創建した日蓮宗の寺院。ここには秋田藩士3名の墓があります。
 <秋田藩士之墓>
 8/13の角間川の戦いで戦死した秋田藩士3名の合祀墓。
 ●渋川謙之進 ●山県此作 ●田所養蔵