横手城址

⇒横手城址への交通
JR横手駅より徒歩30分
【休業日】 冬季閉館/12月〜3月※雪まつり期間(2月中旬)開館
開館時間 : (展望台)9:00〜16:30
【料金】 展望台入場料(高校生以上)100円

秋田県横手市城山町29−1(地図
 豪族小野寺氏が室町時代後期に初めてこの地に築城したのが始まりとの説以外に諸説ある。城主小野寺遠江守義道が関が原で上杉に通じた為、徳川氏に石田方とみられ慶長6(1601)年、所領を没収され、石見国に配流され、その後秋田に佐竹家が入部すると、城が作られ、伊達氏、須田氏次いで戸村氏が城代として入城し、明治まで戸村氏が治めた。
 現在、天守閣があるが、当時の城には天守閣は無く、郷土資料館・展望台を兼ねての模擬天守台である。
 <戊辰戦死碑>
 裏面には秋田藩士の戦死者の名前が刻まれています。


本丸跡の場所にある秋田神社。
明治12年に戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるため焼け残った城の資材を再利用して本丸跡に秋田神社が建立された。その為、神社の材木には弾丸等の跡が今でもしっかり残っている。

 




円浄寺



⇒円浄寺への交通
秋田自動車道山根ICより車で約15分
JR大曲駅から徒歩15分

秋田県横手市中央町6-14
地図
 真宗大谷派の寺で、上宮第一幼稚園の敷地内にある。墓地には横手城攻防戦で戦死した秋田藩士月澤儀助の墓がある。
 
 秋田藩月澤儀助墓
 秋田藩月澤儀助の墓、慶応4年8/11の横手城攻防戦にて戦死。


 

平利旅館


⇒平利旅館への交通
JR横手駅より徒歩20分程度

秋田県横手市大町6-22(地図

 第一大隊長沢金剛が宿泊した宿の亭主が態度が悪く、兵からも苦情が出ていたが、散乱する秋田兵の遺体を憐れみ亭主に埋葬を依頼すると、亭主は喜び、その後陣中に野菜や雑魚や餅を送り、庄内引き上げ後も一年の間キノコなどを送り続けたという義侠ある亭主の話が出てくるが、その宿というのが、現在の「平利旅館」であるという。


 第一大隊長沢金剛の手記には
染屋某ヵ家ニ宿ス此亭主ヵ懀気ナル男ニテ何ヲ申付ルモ穏ニ挨拶スルコトナク不埒ナル奴也ト家来トモヨリノ訴モ度々ナリ生シテ置レヌ奴抔ト皆人ノ悪メル者ナルカ横手ノ戦死者ヵ倒レテ有シヲ見レハ余リニ憫然ナレハ久右衛門トトモニ廻リ見シニ忍ヒサル体ナルヲ主将ニ申述許可ヲ得タレハ彼亭主ヲ呼出シ爰ノ御家中ノ討死セシヲ葬リ呉ル積ナレハ人夫ヲ出シ丁寧ニシテ後ロノ寺に葬ルヘシ回向料ト其入費等ハ此方ヨリ與フヘクレハ速ニ其都合スヘシト含メケ憫ハ亭主大ニ意外ナル体ニテ仰ラルルコトハ實正ニ候ヤト悉ク疑ヲ含テ答ケル故如何テ去ルコトノ有ヘキ速カニ取掛ルヘシ疑フヘキコトニハ非スト諭シケレハ大ニ悦ヒ夫ナラハ誠ニ難有仕合重疊セリ敵ナカラ感服奉ルト云テ悉ク心ニ徹セシニヤ直ニ駆出シ庄内様ヵ御葬リ被下候ト被仰候ソ巳等皆出テ盡力セヨ敵ノ戦死者ヲ斯迄厚ク被成下候ヲ何モ思ハヌコトヤアルト頓テ別人ノ様ニ成リテ働キヌ斯シテ明ノ日其者ニ先立サセテ総勢揃テ段々ニ墓所ヲ拝スルトキ其停主傍ニアリテ落涙数行其後ハ心ニ感セシニヤ敵地ニ深ク入タルトキニ跡ヨリ人ヲ馳テ野菜ノ品又ハ雑魚或ハ餅等ヲ贈レルコト度々厚意ナル者ニテ有シ引上ノトキモ爰ヲ通レルニ色々心ヲ盡テ饗ナシヌルコト厚カリシ是ヨリ先キ右亭主ヲ呼出シ種々談シスルトキ戦死者ノ姓名ヲ聞度詞ヲ盡シテ云ハセントスレドモ只歴々ノ御家中ニテ名前ハ不存ト云テ一人ノ姓名ヲタニ教エサリキ引上後一両年ノ間茸等ヲ庄内迄贈リ越タリキ」




龍昌寺



⇒龍昌院への交通
秋田自動車道飯田ICより車で約2分
JR大曲駅から車で約10分

秋田県(
地図
 この龍昌寺、は開基は佐竹一族である戸村氏で、佐竹氏が関ヶ原の合戦で東西の中立を図った為、秋田へ移封となり、それに従って秋田へやってきたお供寺。本堂から少し離れた墓地には、戊辰戦争の際、横手城攻防戦で戦死した秋田藩士達の墓があり、これは庄内藩第一大隊長松平甚三郎は散乱する遺体を見かね、遺体を集め埋葬し墓標を建て、僧侶に金を与え法要を営んだという寺。
 
 <戸村家顕彰碑>
 本堂前にある戸村家の顕彰碑。裏面には戸村家に対する碑文が刻まれている。戸村家はこの横手を収めていた秋田(久保田)藩の名門の重臣で、奥羽悦列藩同盟にも戸村十太夫が調印したが、秋田藩が新政府軍に寝返ると、逆にその責任を追及され蟄居を命じられ、その子戸村大学は、横手城にて籠城戦を決行。
 
 <戊辰之役戦死者の墓>
 慶応4年8/11の横手城での庄内藩と秋田藩との戦いで戦死した秋田藩士戸村組下13名、同家人6名、小鷹狩組下2名の21名の墓地である。
 新政府軍は横手城を放棄を決断したが、城代戸村大学(20)は戦わずに敗退を続ける友軍に憤慨し、蟄居中の父戸村十太夫からは『城を枕に討ち死にせよ』と言われていた為、籠城戦を決意。
 戸村大学に男気を感じた玄蕃・甚三郎は大学に投降の使者を送るが、大学は受け入れず、午後二時開戦。庄内軍は横手城を落城させた。 その後、遺体が散乱しているのを見た庄内軍は、庄内藩士達が陣を張っていた某染物屋の主人に金を渡して依頼し、遺体を集め、この龍昌院に埋葬し『佐竹家名臣戸村氏忠士之墓』を建立した。 現在の墓は、当時の墓ではなく、明治元年11/10に改葬されたものです。
 
 <秋田藩士沼田瀬兵衛、沼田宇源太の墓>
 8/11の横手城攻めの際に戦死した秋田藩士沼田瀬兵衛、沼田宇源太二人が合葬された墓。戊辰戦争戦死者の墓域入口脇にあります。
 (なお、二人の墓は上の戊辰戦死者墓域内にもあり)