■旧雄勝町■


院内関所跡

⇒院内関跡への交通
JR院内駅より徒歩20分

秋田県湯沢市院内(地図

 奥羽本線の上院内踏切渡って直ぐの場所にあります。
 慶長13(1608)年、院内鎮将箭田野氏に代って大山因藩義武院内預りとなり、組下並びに足軽を以て昼夜交代往来者を改め「通判」によって賦課金を徴収し大いに恐れられた。
 また戊辰之役の際には院内所預大山氏によって、仙台藩探索人青山六之丞を処刑した場所であり、今もその石碑がある(説明板より)
 
 <青山六之丞之碑>
 仙台藩。
探索人。
院内関所跡で処刑された。「仙台戊辰史」では「秋田方面初度ノ戦争」内の仙台藩の戦死者内に「小山六之丞(敵状偵察の為天童方面に潜行捕縛せらる年二十六土樋松源寺に墓あり清涼院秋厳禅力居士)」とだけあるが同一人物か?





院内銀山跡



⇒院内銀山跡への交通
湯沢横手道路雄勝こまちICから車で15分
JR大曲駅から徒歩15分

湯沢市院内銀山町(
地図
 院内銀山は、慶長11(1606)年に村山宗兵衛らにより発見され、開山した。金及び銀を産出し、江戸時代を通じて日本最大の銀山であった。秋田藩によって管理され、久保田藩の財政を支える重要な鉱山であった。江戸時代中期に、鉱脈の枯渇により一時衰退の兆しを見せたが、1800年以降新鉱脈の発見により持ち直し、鉱山の最盛期には、戸数4,000、人口15,000を擁し、城下町久保田(現在の秋田市)を凌駕する藩内で最も大きな街となり、「出羽の都」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。秋田藩から院内銀山に、門屋養安という医者が派遣された。32年にわたって、医師のみならず銀山の経営にも携わり、宿屋の経営も行った。明治時代には、院内は日本4位の銀山であった。しかし、明治末期に、国際情勢の変化により銀が暴落、大正年間に規模を大規模に縮小。その後も細々と採掘を続けていたものの、昭和29(1954)年に閉山となった。
 
 小山勇墓
 
三番共葬墓地最前列にある。三番共葬墓地は、院内での死者三千余を葬った墓地。
 「小山勇」(27)は小倉藩士で、7/28、第二大隊が午前二時一ノ手として酒井玄蕃の家来である寺崎嘉右衛門を先導に鏡沢を発し、間道に入り深藪を掻き分け進むと、南沢川に下る山上で敵の斥候7〜8名と遭遇、寺崎が小山勇を斃し、阿部弥五助も一人仕留めるも、他は逃げられてしまった。銀山町の医師門屋養安の日記には「豊前水子塚、柳の下へ葬り置き候。姓名小山勇とあり。勇山昇雲居士。七月二十八日夜、岩坂にて討死。宿、酉松」とある。
 また、「戊辰出羽戦記」によると、「人影の見ゆるを狙撃すれば小倉藩斥候小山勇なり勇は敵勢を探らんと独来りしか敵に認められ飛丸に斃れたり(以下略)」




 

信翁院


⇒信翁院への交通
JR院内駅より徒歩2分程度
湯沢横手道路「湯沢IC」より車で約35分

秋田県湯沢市上院内字小沢63地図

 *
 <新政府軍兵墓>
銀山口を守備していたのは、佐賀兵と秋田兵で、後で小倉兵の一部が増援されている。「小笠原家記」によると、「肥州・秋田二藩は大滝口銀山を守る。薩藩全体・肥前分隊は中村口・役内沢を守る。銀山口の守兵は単寡、我が兵一小隊をわかちやる」とあり、続いて「各所間道に砲台を築き、賊の衝路を扼す。巳刻我が正面を攻む。防戦時を移す。賊の奇兵は左右の山上より我が砲台を下眺し、縦横に乱射し、銃丸雨の如し。戦い甚だ苦しむ。(以下略)」
 ・小倉藩士 上田篤兵衛直守墓
 ・小倉藩士 森田平右衛門墓
 ・佐賀藩士 古川善太郎墓
  ⇒「佐賀藩戊辰戦史」によると、7/28の銀山口戦死者として、佐賀藩兵本島藤太夫従者善太郎となっているのがそうであろう。

 







■湯沢■

 

清涼寺



⇒清涼寺への交通
秋田自動車道飯田ICより車で約2分
JR大曲駅から車で約10分

秋田県大仙市川目字川目12
地図
 湯沢城主・佐竹南家の菩提寺で、佐竹氏が常陸の国に居た時、常州の三カ寺といわれるほどの名刹。南家から寺領八十石、藩主から10〜20石拝領したとされ、寺領が広く、建物が立派だった為戊辰戦争の際、南家のお屋敷と誤って砲撃を受けたそうです。
 境内には「戊辰戦役五十年記念忠魂碑」や新政府軍によって切腹させられた早川輔四郎の墓などがあります。
 
 <戊辰戦役五十年記念忠魂碑>
 本堂裏手の佐竹南家の
塋域に向かう高台端に建立されている碑。大正6年に湯沢有志によって建立されたモノ。
 
 <早川輔四郎墓>
 
佐竹南家の塋域内『本諦院殿衝山成立大居士』の戒名の墓石。
 早川輔四郎は、湯沢鎮将佐竹三郎陣代として横手参謀局に居たが、9/19六郷に於いて節度に背き漫りに進軍した罪により、新政府軍より切腹申しつけられ、9/20茂木秀之助の介錯により切腹した。
 早川氏の祖は佐竹南家第3代義種の次男の宣直で、南家第10代の義舒に子がいなかったときに、早川氏から養子をもらっている。お家断絶を防ぐ為として、その後も、南家に嫡男が生まれなかった場合には、早川氏から養子をもらって南家を継いだり、逆に、南家から次男・三男が早川氏に養子に行ったりする間柄であった。

 墓碑には↓の記載がある。

 ※左写真データ破損の為、一部画像がオカシイです…(汗)

佐竹南家の塋域内墓碑「『本諦院殿衝山成立大居士 慶応四年九月二十日 弟珍傳 於横手切腹」とある。


 

安乗寺



⇒安乗寺への交通
湯沢駅から約15分

 秋田県湯沢市大町1丁目3−56
地図

 真宗大谷派の寺。ここには戊辰戦争で舟形の戦いで負傷し、この湯沢で死去した長州藩士の墓がある。
 <岡田兵槌昌成墓>
 長州藩第四大隊士、享年16歳。慶応4年7/13の舟形の戦いで、長州藩士は死傷者7名を出しているが、そのうちの岡田兵槌、戸倉音五郎は重傷にて、共に湯沢の病院に至り15日死去。東京松陰神社の長州藩第四大隊戦死者招魂碑内にも名前が刻まれている。