高雲寺

 

⇒高雲寺への交通
JR東北本線八戸駅からバス「五戸駅行」で
荒町下車徒歩5分

見学自由
青森県三戸郡五戸町字愛宕後24-1(地図
 会津藩元家老内藤介右衛門や倉沢平治右衛門の墓がある事で知られる寺で、この辺りでは大きなお寺になる。
 で、実弟梶原平馬も同じ五戸に住んでいたと知って、交流があったのかなvやっぱり近くに住むのねvと思ったんですが…この高雲寺から上市川…遠かったです。車で1時間近く掛かりました…。
 お寺の方も良い方でしたvv倉沢の私塾跡を聞いたのですが、何となくしか覚えておられず、狐森辺りを探してみたのですが解らず断念…これもいつかリベンジ…(TwT。)
 
 <内藤介右衛門墓>
 本堂と道を挟んで反対側にある墓地の水汲み場正面にある。
 やっと、念願の内藤介右衛門の墓来れましたvv
 墓石の裏には、南摩綱紀撰文の内藤介右衛門の事蹟「旧藩相内藤君」が刻まれています。
 内藤介右衛門は、会津藩の戊辰時家老で、同じく家老であった梶原平馬や彰義隊に参加し処刑された武川信臣は実の弟である。戊辰戦争の際は西郷頼母に代わり白河口の総督となり、三代に陣を張り、入城した後は三の丸守備となる。家族は菩提寺の面川泰雲寺で自刃。
 斗南移住後は、五戸に住み廃藩置県後も五戸に残り開拓や子弟の教育に力を注いだ。
 
 <倉沢平治右衛門>
 墓地入り口入って直ぐ右に入る道を入って直進すると、左側少し下に建立されている。上田八郎右衛門氏彬の六男。家禄400石の倉沢家を継ぎ、のちに若年寄となる。主君容保に従って京都にあり公用方として活躍する。
 斗南移住後は藩の少参事として移住者の入植のために奔走。廃藩後も五戸に残り、旧斗南藩の救貧院を継承して機織場とするなど、残留士族の救済に尽力。「中ノ沢塾」に私塾開き、子弟の教育にも尽力した。

 



左⇒旧会津藩士の墓「旧会津藩家老諏訪伊助頼信後妻西郷十郎右衛門近登之孫母生一女明治四年辛未八月三日死歳二十六法名王量院殿○室月光大姉」

右⇒旧会津藩士の墓「元会津藩明治戊辰戦争○后陸奥五戸ニ移住(不明)行年四十二歳(不明)明治十有八年九月十日(不明)」

共に、内藤介右衛門の墓に向って右側奥にひっそりと並んで建立されております。

 

 

【オマケ】・・・梶原平馬が一時棲んだと云われる五戸の上市川の風景(…何にも無いですね)

 

 


倉沢平治右衛門私塾跡

 

⇒倉澤平治右衛門私塾跡への交通
八戸北ICより車で30分

青森県三戸郡五戸中ノ沢(地図

 倉澤平治右衛門が五戸で開いた私塾跡。
 現在は小さい祠がありますが、樹木に囲まれている為解りづらいです。

上の地図がざっくりなんですみません(汗)
左写真の建物の脇を入って、右写真の右手高台の所にあります。