斗南藩士上陸の地

 

⇒斗南藩士上陸の地への交通
JR大湊線大湊駅下車 徒歩5分
見学自由

青森県むつ市大湊新町

 大湊駅からむつ駅方面に前の通りを進み、すぐの交差点を右折、そのまま道なりに進むと左側に「斗南藩士上陸之地」というブルーの看板が見えますので、その中に入った先になります。
 これは、海より船で斗南入りした藩士がこの大湊のこの地点に上陸した事をしるして、むつ市市制30周年記念事業として建てられたもの。
 記念碑は会津若松市から贈られた鶴ヶ城の石垣と同じ慶山石をつかっていて、会津若松市の方向を向いて建てられている。また周囲の植物はむつ市の花「はまなす」と会津若松の木である「あかまつ」を組み合わせ植栽している。
 蒸気船はアメリカよりチャーターした7隻の外輪蒸気船で、会津残留組は新潟より、江戸謹慎組は品川より野辺地に入港し、田名部に移ったものである。

 

一段目左「上陸之地より見た陸奥湾(大湊)」
 ・・・大湊は元々「安渡湾」という名で、湾に沿った村を「安渡村」「大平村」という名であったが、
明治4年2月に両村を合併させ、斗南藩の名で「大湊」という名前に改称している。諸説あるモノの「安渡港」を奥羽の長崎たらしめん事を願った斗南藩首脳陣の「大きな湊」への思いでは無いかとする説もある。
 
一段目右「上陸之地にある説明版」(文章が風化してかなり読み取り辛い…)
二段目「上陸之地に植えられた(むつ市の花/ハマナス)」






釜伏山(斗南磐梯)

 

⇒釜伏山への交通
JR大湊線大湊駅より車で30分
見学自由

青森県むつ市大湊新町

 戊辰戦争で敗れた会津藩は、下北のこの地に移住させられる事となり、主導者となった山川浩、広沢安任等はこの地を「斗南藩」と名づけた。「斗南」という名の由来は諸説あるものの、(1)中国の詩文「北斗以南皆帝州」から採ったものであるという。(2)「いつの日か”南”(墳墓の地会津)に帰る」という意味であるとする。等がある。
 彼らが愛した福島の磐梯山を、下北むつの釜臥山と重ね合わせ故郷を偲んだと言われており、釜臥山は「斗南磐梯山」とも呼ばれている。
 「斗南藩、三合扶持が足りぬとて 焚かぬ前から釜伏の山」
という狂歌が、今でも下北には残るといわれ、海抜879mのこの山を見ながら、会津藩士達は故郷会津を思い出したのである。






願求寺

 

⇒円通寺への交通
JR大湊線むつ駅下車 徒歩5分
見学自由

青森県むつ市大湊新町

 大湊駅より上陸之地とは反対に向って進むとある願求院。
 ここには、旧会津藩士であった石井勝吉の墓がある。
 
 <石井勝吉墓>
 本堂向って右手にある墓地へ進み、大きめの舗装道に出る直前の左への道を入り進むと右手に右写真の墓石が見えてくる。
 石井勝吉氏は旧会津藩士で、斗南藩へ移住後田名部へ入植している。

 

石井勝吉肖像(もちずり様より提供)







柴五郎一家居住跡

 

⇒柴五郎一家居住跡への交通
JR大湊線むつ駅下車 徒歩5分
見学自由
青森県むつ市大湊新町
 旧会津藩士で後に会津人としては最高の陸軍大将にまでなった柴五郎の手記である「ある明治人の記録〜会津人柴五郎の遺書〜」で知られる斗南での柴家の生活の拠点となった「落野沢」の地。
 この地で柴五郎は少年期を過ごしたが、布団も無く藁に包まって寝、粥も啜るそばから凍りだす程の極寒の地で、食べるものにも困り、死んだ犬の肉を連日食べ、父より「ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と叱られ、栄養が不足した為、頭髪の抜けたというほどであったという。

 むつ市運動公園のテニスコート裏手にあり、大通りをむつ市中心地に向って進み、左手にテニスコートを見ながら進むとテニスコートが過ぎてすぐに左に入る細い砂利道があるので、それを進むと林の中に出る。その途中左手には↓写真の呑香稲荷があり、

 余の一家は働き手の太一郎兄不在の為、(中略)
 建具あれど畳なく、障子あれど貼るべき紙なし。板敷には藁を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等の藁縄にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を通り貫け、
炉辺にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥も石の如く凍り、これを解かして啜る。(中略)
 父上は、炉のかたわらにて習いおぼえたる網結その他の手細工をされ、兄嫁は毎日朝より授産所にて機織して工銭を稼ぐ。薪は晩秋拾い集めたる枯枝を使いあるも足らず、積雪の中を探し求む。炭には焚火の消炭を用い、行火には炭団を作るに苦心せり。売品を購う銭の余裕まったくなし。
 
用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲みあげ、父上、兄嫁、余と三人かわるがわる手桶を背負えるも途中にて氷となり溶かすに苦労せり。(中略)
 かくして、およそ
二十日間毎日犬肉を喰らいつづけたり。そのためなるか、あるいは栄養不足のためなるか知らず、春になりて頭髪抜けはじめ、ついに坊主頭のごとく全体薄禿となれり。  (「ある明治人の記録」より)

 

(左)呑香稲荷神社鳥居/(右)呑香稲荷神社本殿






円通寺

 

⇒円通寺への交通
下北交通大畑線田名部駅から徒歩5分
見学自由
青森県むつ市大湊新町
 当初、斗南藩の藩庁は五戸の旧盛岡藩五戸代官所に置かれ、容大も五戸に移り住んだが、海運にも夢を託せる田名部に藩庁を移す事とし、田名部に隣接する大湊は天然の良港で、江戸期には盛岡藩の財政のかなりの部分を補っていた事を充分勘定に入れたからである。
 明治4年2月18日五戸から田名部に移り、斗南藩の藩庁の仮館として、この円通寺が充てられたものである。
 三万石とはいえ、独立の藩庁もないとあっては心もとないと、山川の命によって藩庁建設計画が立てられ、学事係の橋爪寅之助らが徳玄寺において構想を練り、図面は出来上がったが先立つ金がなかった。

 …右側にある本堂は古そうではありましたが、当時の建物かどうかは不明(さすがにお盆のまっさなかお忙しい最中聞けません…/泣)
誰かご存知だったら教えて下さいマセ。

 
 <招魂碑>
 本堂向かって左側にひっそりと佇む「招魂碑」
 これは明治33年に、戊辰戦争33回忌の大法要が開催され、この招魂碑が建立されものである。碑面は元斗南藩主松平容大の揮毫、碑文は南摩綱紀の撰です。

 

円通寺本堂内部(ここで斗南藩政が検討されたのかも?)







徳玄寺

 

⇒徳玄寺への交通
下北交通大畑線田名部駅から徒歩5分
見学自由

青森県むつ市大湊新町

 藩庁となった円通寺が曹洞宗で、寺院内で獣肉や魚介類を食する事が出来なかった為、当時でも肉食妻帯が許されていた隣のこの真宗大谷派齢香山徳玄寺でとることが多かったと伝えられている。

 山門近くには「斗南藩史蹟地」の標柱があり、境内には、「斗南開発の館」という斗南藩の歴史を簡単に記した木製の史蹟看板があるものの、かなり風化して墨も剥げ、読みにくく…というより読めません…。







斗南ヶ丘

 

⇒斗南ヶ丘への交通
下北交通大畑線田名部駅からバス「尻屋線」で斗南丘下車
見学自由
青森県むつ市斗南丘
 むつグランドホテルを過ぎて暫く進むと左手にひっそりとした「斗南藩史跡地」という斗南ヶ丘の案内板と入り口が見える。
 田名部川の流域に開けた平野を挟んで田名部の町に相対した丘陵地帯で、山川等はこの原野に期待をかけ、藩名を採って斗南ヶ丘と名づけた。この地に斗南藩では雨露をしのぎ得る程度の一戸建て約30棟・二戸建て約80棟の掘っ立て小屋を建設し、明治三年10月に約200戸の移住者を入植させた。

 そして、陸稲、粟、稗、蕎麦、小麦、馬鈴薯、甘藷、大豆、大根、小豆、荏、藍、煙草、麻を植え、更に苗圃を作って桑畑、杉苗、雑木等を育てて、養蚕を行って生糸、口糸等を作ろうとしていた、更に茶やみかんの栽培まで試みたが、痩せた土地で、ヤマセに叩かれ、生産高は皆無と言っていいほど微々たるものであったろうという。
 
<旧斗南藩屋敷土塀跡>
 斗南ヶ丘の広場には、一部土の盛り上がった部分があり、これは旧斗南藩屋敷の土塀跡であるという。
 斗南ヶ丘の市街地は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割りされ、一屋敷当たりを百坪単位として土塀を廻らして区画した。東西にはそれぞれ大門を建設して門内の乗り打ちを禁止し、十八箇所の井戸を掘ったと言われている。
 斗南藩の指導者達が、将来藩政の拠点にする事を夢見た斗南ヶ丘は、第一新建と呼ばれた。
 <秩父宮両殿下御成記念碑>
 斗南ヶ丘史跡地の一番奥に建てられている台座を含めた高さ5.8mの高さの立派な碑。
 昭和11年10月には、皇弟秩父宮雍仁親王殿下と勢津子妃殿下(旧斗南藩主松平容大の令姪)が下北地区一帯を巡遊され、斗南が丘にもお立ち寄りになられたのを記念して建立されたものである。
 碑文の中には「伏して惟みんは妃殿下は旧藩主松平容大の令姪に当たらん切に当時を追想せられたるは亦旧同藩臣民の斎しく感激に堪へざる所なり。是に於て田名部町民相謀り石を建てて之を勤し以て両殿下の御高徳を永遠に伝へんと欲すと云尓」






斗南藩士墓

 

⇒旧斗南藩墳墓之地への交通
下北交通大畑線田名部駅からバス「尻屋線」で斗南丘下車

青森県むつ市斗南丘

 斗南藩史跡地から道をそのまま数百メートル尻屋崎方面に進むと、下り坂になった辺りの右手高台に階段が設けられていて、その高台の上に旧会津藩士(斗南藩士)が埋葬された斗南ヶ丘の墓地があります。現在はその数は僅か数基となっていますが、「斗南藩追悼之碑」も建立され、きちんと整備されている感があります。(尻屋崎にも感応碑があるらしいのですが、時間切れでいけませんでした…)
 
 <斗南藩追悼之碑>
 近年建てられた風の新しい「斗南藩追悼之碑」「旧斗南藩墳墓の地」という案内板の脇に建立されており、その脇には旧斗南藩士達の墓が数基建てられています。その中には、山川大蔵直轄の精鋭部隊「狙撃隊」隊長を務め、永岡久茂等と共に思案橋事件に連座し処刑された竹村幸之進の祖母(下写真)の墓もある。

 

竹村俊秀(幸之進)の祖母の墓