<真武根陣屋遺址碑>
鳥羽伏見の戦いに参加すべく準備を整えるも手間取り、出航が遅れ、慶喜が東下し、幕兵等が破れ四散した頃には、未だ請西藩士達は海路大阪を目指すべく、江戸湾を小舟で漕ぎ悪戦苦闘しており、江戸に到着した頃には、慶喜は江戸に帰着していた為、鳥羽伏見の戦いには間に合わなかった。
この頃の藩主林忠嵩は僅か21歳の青年藩主で血気盛んであった、その為、ここ請西にやってきた人見・伊庭等の遊撃隊と同盟し、藩主である忠嵩自ら藩士59名を率い脱藩、不退転の覚悟を決め、この真武根陣屋を自焼させた。
そして、遊撃隊と共に戊辰戦争を戦い仙台にて降伏した。
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