岐阜城

⇒岐阜城への交通
JR岐阜駅から岐阜バス長良方面行き「岐阜公園歴史博物館前」下車、徒歩3分の山麓駅から金華山ロープウェー山頂駅下車、徒歩10分
拝観時間:
8時30分〜17時30分(季節変動あり)
入場料:
入場200円(岐阜城資料館も共通)

岐阜県岐阜市金華山天守閣18
 戦国時代好きにはご存知の岐阜城(稲葉山城)で、かなりの山城です。美濃斉藤道三の居城であったが、家臣であった竹中半兵衛等が造反し斉藤龍興は城を捨て逃亡、後織田信長が秀吉の活躍で攻略。城主であった信忠が本能寺の変で斃れると家臣の斉藤利尭が岐阜城を乗っ取るが光秀が秀吉に敗れると降伏。後織田信孝は柴田勝家と呼応して挙兵するが落城。秀吉の家臣池田輝政の居城となる。その後織田秀信が城主となるが、関が原の戦いで石田三成方に付き、福島正則、池田輝政に攻められ落城。江戸時代になると、家康は岐阜城を廃城とし、奥平信昌に十万石を与え加納城を築城させる。のち大久保氏を経て、戸田氏、安藤氏が藩主となり、幕末には永井尚服の居城となり、戊辰の際には恭順し新政府軍に与した。
 山頂駅から城までは、山道、石段の連続で体力が必要(笑)

 

 <板垣退助像>
 旧土佐藩士で乾正成の子として生まれた。倒幕運動に参加し、鳥羽伏見の戦いでは土佐藩の大隊司令として出征し、土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として転戦。北関東から会津に転戦。(日光も銅像が建っている)戊辰後には土佐藩の大参事となり、1871年には参議となるが、征韓論破れて、西郷隆盛等と共に下野する。1874年に愛国公党を立党し、後藤象二郎等と「民選議員設立建白書」を提出するも却下される。のち自由党を結成し自由民権運動を推進。

 ロープウェイの山麓駅がある岐阜公園の右奥、織田信長像の裏側に建立されている。

 
 <自由党総裁板垣退助君遭難地碑>
 1882年岐阜で遊説中に相原尚褧に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという(…が、実は事件直後にジャーナリストが岐阜で行った講演の題名『板垣死ストモ自由ハ死セズ』が板垣自身の台詞として広まってしまったものであるという事らしい…)

 上の板垣退助像の脇にひっそりと建立されている。