郡上八幡城

⇒郡上八幡城への交通
長良川鉄道郡上八幡駅より岐阜バス郡上白鳥行き「城下町プラザ」
下車徒歩20分
拝観時間:9:00〜17:00、
  (6月〜8月/8:00〜18:00、11月〜2月/9:00〜16:30)
入場料:大人300円、小人150円
岐阜県郡上市八幡町柳町一の平
戦国時代末期の永禄 2年、遠藤盛数が東殿山の本家東氏を攻め滅ぼし築城したもの。稲葉氏、井上氏、金森氏を経て宝暦8年青山氏が城主となり4万8千石を領し幕末明治まで続くこととなる。城は明治維新で破却され、現在の城は昭和8年に復元されたもので、木造の再建城としては全国で最も古いものである。
 郡上藩は、幕末維新は凌霜隊によって有名であるが、隊士達は離散し、城下には凌霜隊に関する史跡は少ないです。城のある山の麓に駐車場がある、山の上にもあるが、城までの道はかなり狭く急な坂でカーブがキツイので、大きめの車で行かれる場合はかなりテクニックが必要かもしれません。自信のない方、徒歩の方は、麓駐車場から送迎ワゴンが出ているので利用すると良いと思います。

 

 
 <凌霜隊慰霊碑>
 郡上八幡城天守閣裏にある「凌霜の森」にある凌霜隊の慰霊碑。「凌霜の森」とはいえ、右の碑位しかないですが(説明板も無し)。碑には凌霜隊の説明文と、凌霜隊士名が刻まれています。碑に刻まれている「道ハ一筋ナリ」の文字は参謀速水小三郎の日記の一文「抑道ハ一筋ナリ、君ニ忠ナルハ親ニ孝ナリ、皇国ノ御為ナリ、真ノ勤王ナリ、是ニ反セルハ不忠ナリ、不義ナリ、不孝也、国賊也、禽獣也、予子孫タル者熱く是理ヲ弁知スベキ也。」より抜粋したもの。
 形はまったく違うものの、飯盛山の凌霜隊の碑と対になっているらしいです。
 
 <凌霜隊之碑>
 城山の麓駐車城脇に「岸剣神社」「積翠神社」「秋葉三尺坊」等がある。その入口石段下左脇に、左写真の「凌霜隊之碑」が建立されている。凌霜隊は、郡上藩が万一東軍側が勝った場合を考慮して、藩は一隊を組織させ東軍に援軍として送った。それが凌霜隊で、隊長は僅か17歳の家老の息子朝比奈茂吉。北関東から会津に転戦し、籠城戦を白虎隊と共に戦い会津藩の降伏と共に降伏。
 のち東京に護送され、郡上に送られるが、藩は新政府の目を気にして隊士たちを揚屋(牢屋)に入れ過酷な扱いを受け、一時は処刑されそうになるも、城下の寺の住職たちの嘆願により、後長敬寺に移され、釈放されるが、世間の目は冷たく、隊士の殆どは離散した。 
 この碑は昭和15年に、郡上郡青年団が建立した顕彰碑である。

 

郡上八幡の町並み

 

 

 

長敬寺

⇒長敬寺への交通
長良川鉄道郡上八幡駅から岐阜バス郡上八幡または郡上白鳥行きバス「城下町プラザ」下車徒歩5分
拝観自由/入場料無料

岐阜県郡上市八幡町職人町742

 慶長6年の開創で、開基は東氏末裔正欽坊正観。
 戊辰戦争後、赤谷揚屋に入れられていた凌霜隊士達は、環境の悪さから病人が続出し、郡上藩領内の寺院の僧侶達が立ち上がり談判し、赤谷揚屋から、ここ長敬寺に移され、4ヶ月間謹慎した。
 当初寺内勝手のつもりであったが、官吏は承知しなかった為寺入用で囲いを作ったものである。
 当時の本堂は残っておらず、大正年間に改築したが、大正8年に大火によって焼失、現在の本堂は昭和32年に再建されたものである。

 

 

慈恩禅寺

⇒慈恩禅寺への交通
長良川鉄道郡上八幡駅から岐阜バス郡上八幡または郡上白鳥行きバス「城下町プラザ」下車、徒歩10分
拝観時間:9〜17時(たぶん庭園を見る場合だと思うのですが)
入場料:300円(…たぶん庭園を見る場合だと思うのですが)
公式HP⇒
http://www13.ocn.ne.jp/~jionji/index.html
岐阜県郡上市八幡町島谷339
 凌霜隊士達は降伏後、旧藩お預けとなり郡上藩領に到着すると、赤谷揚屋入りを命じられた。赤谷揚屋の環境は悪く、病気になる者が多く、その状態を知った慈恩禅寺の住職が、宗派を超え領内の寺院に聲を掛け会合し、当初一寺に一人ずつ預かるとの申し立てを行ったが、聞き届けが無かった為、次に金五十円を集め長敬寺屋敷を借受け場所替えを申し立て、凌霜隊士達は赤谷揚屋から長敬寺に場所替えとなった。 (どちらの案も聞き届けられない場合は、寺院が談合して朝廷へ願いを出すという交渉によって藩首脳は渋々承知したものである) 明治26年水害で裏山が崩れ、勅使門、山門を残し埋没し、3年後復興されたものである。

 

 

赤谷揚屋跡

 

 

 
 慈恩禅寺の上記写真の門に向って左側に駐車場があり、その手前に細い車一台通れるか通れないかという狭い道があり、その道を進んで行くとやがて右側に右写真のようなプレートが見える。ここは江戸期揚屋(牢屋)が置かれた場所で、湿地に作られた為、湿気が多く風通しも日当たりも悪かった。
 凌霜隊達はこの揚屋に投獄され環境の悪さから病人が続出、何度も場所替えの嘆願をするも聞き入れられず、慈恩禅寺を始めとする領内の寺院住職等の尽力で約半年後、長敬寺に移される事となった。