土方歳三最期の地


⇒土方歳三最期の地への交通
JR函館駅より徒歩10分。
市電湯の川線 新川町駅より徒歩12分。
函館市総合福祉センター敷地内。

北海道函館市若松町33-6(地図

 今更説明も要らないかと思いますが、土方歳三の最期の地としては諸説ありますが、ここはその一つ。五稜郭と千代ヶ岡陣屋延長線上にある。孤立した新撰組隊士達の救援に向かう途中被弾して戦死。
 他に、中島登の覚書では「異国橋辺りに至り、遂に弾丸に当たり落命」としており、異国橋とは現在の十字街と呼ばれるあたりである。
 一本木関門は、当時の函館市街の端にあたり、箱館市外地と五稜郭領域を隔てる門で、旧幕府軍がこの関門を通る旅人や住民から通行税を取っていたのである。







中島三郎助父子最期の地


⇒中島三郎助父子最期之地への交通
市電千代台駅下車徒歩10分
バス14、23、32番西部テーオー前下車。
箱館税務署近くの交差点の島中にあり。

北海道函館市中島町37(地図

この一帯は津軽藩千代ヶ岡陣屋があった場所で、中島三郎助は元浦賀奉行与力だった人物で、 ペリーの黒船に乗って最初に対応した人物である。箱館戦争へは、長男恒太郎、次男英次郎と共に参加、降伏勧告も最期まで撥ねつけ、 明治2年5月14日この千代ヶ岡陣屋にて父子3人戦死した。






住吉墓地


⇒住吉墓地への交通
谷地頭の電停から徒歩で約15分
かなり坂はキツイです。

北海道函館市住吉町16(地図

<小池毅墓>
 明治7年会津藩の最後の侍医小池求真の三男として歌棄郡有戸村で生れる。北里柴三郎の元でペストについて学ぶ。明治30年台湾でペストが流行、日本軍人、台湾市民、高砂族等多くが罹患、毅はその真っ只中に飛び込み、日本軍人だけでなく、現地人をもペストから救うために懸命の医療、研究に尽力、しかし毅自身も不幸にもペストに罹患し、明治31年2月28日、年僅か24歳で死去した。住吉墓地入口から石川啄木の墓へ行く道の途中左側にあり、木柱も立ってます。
 
 <雑賀重村(孫六郎)墓>
 会津藩士一ノ瀬郷助の三男で、名は帰一。1854年蝦夷北島巡視、1859年斜里に在勤、幕府海軍に入り開陽丸に乗る。戊辰戦争では新潟港へ行き、榎本武揚へ援軍依頼の使者となり、そのまま榎本軍に入隊、雑賀孫六郎と改名、室蘭開拓を企画、函館開城後、重村と名乗り、斗南藩を経て北海道開拓使に出仕、室蘭港の築港に尽力、茅部、山越初代郡長中に病死。
 石川啄木一族墓近く、啄木墓より少し下った所の山側階段を登ると直ぐ3基ある古い墓石の内の一番左が雑賀重村の墓石。






碧血碑


⇒碧血碑への交通
市電谷地頭駅より徒歩15分。

北海道函館市谷地頭町(
地図

<碧血碑>
 ここも有名どころですので、今更説明も不要かと思いますが、箱館戦争で戦死した旧幕府軍約800名が祀られている慰霊碑。
 「碧血」の由来は、中国の故事より「義に殉じた武士の血は、3年経つと碧色になる」からきています。箱館戦争後、放置されたままとなっていた旧幕府軍の遺体を義侠柳川熊吉が実行寺に埋葬、後明治4年熊吉が函館山に土地を買い、 実行寺より改葬、同8年榎本武揚等と協力し、この碧血碑を建立した。
 
 <柳川熊吉翁之寿碑>
 箱館戦争後、旧幕府軍の遺体は埋葬が許されず、死体は放置されていたが、これを哀れに思った義侠柳川熊吉が、遺体を回収、実行寺の住職・日隆だけが熊吉に賛同し実行寺に埋葬。更に明治4年、函館山に土地を買い改葬し、明治8年に碧血碑を建立した。
 熊吉88歳の米寿に際し、有志等がその義挙を伝えるため、碧血碑の近くにこの碑を建立、熊吉は翌年に89歳にて死去した。






函館護国神社(新政府軍墓)


⇒函館護国神社への交通
市電宝来・谷地頭線「宝来町駅」より徒歩10分。
境内自由

北海道函館市青柳町9-23(
地図
 <新政府軍墓地>
 箱館戦争での新政府軍戦死者を葬った官修墓地。
 戦後直ぐ、津軽海峡に面した大森浜で慰霊祭が行われ、、直ちに招魂場の造成に取り掛かり、のちにこれが現在の護国神社となった。
 造成させられたのは、降伏した旧幕府軍兵士達で、明治2年8月に完成した。165柱が祀られている。この中には、旧幕府軍の弁天台場の大砲破壊を手引きしたスパイ、斉藤順三郎の墓もある。
 この函館の地では、現在土方人気で旧幕府軍(蝦夷共和国軍)の人気が高まっている為か、この新政府軍墓地については忘れ去られたような寂しさが漂っている。






高龍寺


⇒高龍寺への交通
JR函館駅から函館バス高龍寺前行き15分、終点下車すぐ。
公開時間 8:00〜16:00/入場無料

北海道函館市船見町21-11

 寛永10年に建立した曹洞宗の寺で、箱館戦争以前は坂の下にあった。現在の場所に移ってきたのは明治末期。本堂は100年以上前のもの。木造の寺としては、北海道内で最古。箱館戦争の際には、旧幕府軍の箱館病院として利用されていたが、新政府軍が乱入し、その場に居た傷病者を惨殺し放火、入院していた会津遊撃隊士達が多く犠牲になったという。
 
 <傷心惨目碑>
 箱館病院高龍寺分院で起きた、新政府軍の乱入により傷病者惨殺により犠牲となったという会津藩士(遊撃隊士)を悼み、旧会津藩士の有志が建てた「傷心惨目」の碑。明治13年の建立。
 本堂向かって右隅にひっそりと建立されている。その側には昭和55年に旧会津藩主松平容保の孫で、当時福島県知事であった松平勇雄氏により会津の山地に広く自生する「紅更紗灯台(ベニサラサドウダン)」(ツツジ科)が献樹されている。
 碑の「傷心惨目」の大文字の左側「撰宋岳飛真蹟李華古戦場文字勒石以弔為」、中国南宋の中心岳飛の筆蹟、語は李華の古戦場を弔う一句を写した、まだ賊軍といわれた時代に歴史文学の力を借り堂々を弔ったのである。更に、下には「会津残同体共建、明治十三年」と刻まれている。
 

 <会津藩中老田中玄純墓>

 通称鉄之丞。350石。家老田中正玄の一族。
 軍事奉行・学校奉行等を経て、安政6年蝦夷地警備の命を受け、若年寄陣将として現地に赴き一時帰国したが、文久元年に再度蝦夷に渡り帰路、病に倒れ、勇払(現苫小牧)で没した。

 墓は、高龍寺墓地の中心道を直進し、上へ登る道を上がり、一度折り返した突き当たりの一帯の崖側を進むと、ブロックに囲まれた一角「田中家墓地」がありその左隅に建立されている。







称名寺


⇒正法寺への交通
JR函館駅より函館バス高竜寺前行きで12分、称名寺通下車すぐ。
市電「函館どっく前」下車徒歩10分。
JR函館駅から車で15分。
拝観時間:9:00〜17:00/拝観無料

北海道函館市船見町18-14

 1644年に伊勢の国の僧、円龍が阿弥陀如来像を奉持し北海道に渡り亀田村(現函館市)に像を祀り阿弥陀堂と称したことがその開創となった浄土宗の寺院。幕末には函館の町にペリー提督が訪れ、その日記に称名寺の記述もあるという。
 その後函館は下田とともに貿易港となり、寺院は、英・仏の領事館にもなった由緒ある寺。
 <土方歳三・新撰組隊士供養碑>
 本堂左脇には、ひっそりと右写真の碑が建立されている。
 当初のものは度重なる大火で失われ、現在の碑は昭和48年に有志によって建立されたもの。碑面には土方歳三の名前の他、野村利三郎義時、栗原仙之助、糟屋十郎、小林幸次郎の4名の新撰組隊士の名前が刻まれている。
 これら4名の墓石も境内にあったが、昭和29年の台風で破損した為、この碑に名前を刻んだという。






実行寺


⇒実行寺への交通
JR函館駅より函館バス高竜寺前行きで12分、称名寺通下車すぐ。
JR函館駅から車で15分。
市電「函館どっく前」下車徒歩10分。

北海道函館市船見町18-18

 明暦元年(1655)、山ノ上町(現弥生町)で清寛という僧が草庵を結んだのが始まりで、元禄3年(1690)松前の日蓮宗法華寺の末寺となったが、「実行寺」という名前には何時なったのはか不明。明治17年には山梨県身延山久遠寺の末寺に編入する。
 安政元年(1854)にペリーが来航したときは、写真班の宿舎にあてられ、安政5年(1858)にはロシア領事館にも境内が利用された。
 正徳4年(1714)、富岡町(現弥生町)に移転、明治12年(1879)の大火の後、同14年(1881)にこの地に移った。その後も幾度か大火に見まわれ、現在の本堂は同43年(1910)のものである。
 

 

 <旧幕府軍戦死墓>
 明治2年(1869)箱館戦争終結後、旧幕府軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていた際、侠客柳川熊吉が市内の遺体を回収し、これに実行寺の住職が賛同、寺の境内に埋葬したものである。(多くの遺体については、後に碧血碑に改葬されている)
 墓は、本堂左側の前の道を墓地に向かう墓地入口に並んで建立されています。

 <諏訪常吉墓>
 上記旧幕府軍戦死者墓内にあります。
 会津藩士。藩主松平容保の京都守護職時代の公用方。
 慶応4年の帰国後、奥羽列藩同盟を進めるため仙台で遊説中、若松城が包囲されて帰城出来ず、榎本艦隊に乗込み、同行の会津藩士等と箱館で会津遊撃隊を組織、隊長となる。陸軍奉行並・土方歳三の指揮下に入り、第一列士満第二大隊伊庭八郎隊長に属する一個小隊を編成した。
 また、福島にて松前藩と交戦の後、福島に陣を張り、粗暴を働く兵たちの処分した事でも知られる。
 明治2年4月29日の矢不来戦いで重傷を負い、箱館病院に収容される。
 常吉はこの矢不来の戦いの直前の最前線より引き揚げる際に『もとより戦を好むものではないので当地を引揚げるが、やむをえない状況に立ち至った場合は武器をもってお相手いたす。その際は御容赦されたい』という意の「官軍」宛ての置手紙を残しており、新政府軍の黒田清隆がこの手紙の存在を知り、『諏訪に和平の意志あり』として箱館病院の諏訪を密かに訪ね、五稜郭への降伏斡旋を依頼するが、重傷で病床にあった常吉は、箱館病院にいた同じ会津藩士であった小野権之丞に降伏斡旋を依頼して死去。享年37歳。
 <日向君招魂碑>
 上記旧幕府軍墓のこの列の左方に
ある「日向君招魂碑」。
 
会津藩士で、士中白虎二番隊隊長として有名な日向内記の長男「日向真寿見」氏の招魂碑。 日向真寿見は嘉永6年1月19日生まれ、14歳で喜徳の側近となり、戊辰戦争の際には、16歳で父内記に従い守城。
 戦後、明治6年、開拓使電信生となり、卒業後は10年に渡り北海道各地に勤務、工部省技手・電信修技校助教を歴任。以後も岡山・新発田・酒田などの電信局長を務め、日清戦争勃発とともに朝鮮に渡って第一軍兵站部に属し軍用電設の業務中に倒れ明治28年3月24日平安道龍川で没。享年43歳。日向真寿見の一周忌に僚友達が、仙台青葉神社に大槻修如電の撰・書で、武士道精神を貫いて職責に斃れた彼を称える碑が建立され、篆額は榎本武揚によるものである。倒壊していたその碑が、実行寺に移されたのである。また、同寺墓地には日向真寿見の墓もあるという。(日向真寿見の母は諏訪氏の娘であり、同寺に諏訪常吉の墓があるのも、その縁からとも思われる)






己巳役海軍戦死碑


⇒己巳役海軍戦死碑への交通
電停「大町」徒歩12〜15分

北海道
函館市船見町6-8(地図

 弥生坂を登りきった先の道が二股に分れる所の茂みの中。
 
明治2年(1869)の箱館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所である。
同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、旧幕府軍に攻撃を開始、5月21日1箱館湾海戦で新政府軍艦朝陽は、旧幕府軍艦蟠龍の砲弾を受けて沈没した。
 この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下73名の死者名が刻まれ、また甲鉄、朝陽、春日、飛龍などの新政府軍艦名も刻まれている。
 碑の石は高田屋の亀石といわれたものの一部で、亀石は現宝来町にあった高田屋御殿の豪邸の庭園に置かれていた巨石で、護国神社にある碑も同じ亀石を割って作られたもの。 碑には建立年月が明治3年(1873)に建立された。
 <箱館府在住隊碑>
 己巳役海軍戦死碑の脇にある「函館府在住隊碑」。
 撃沈された新政府軍艦「朝陽」に乗船していた林六三郎等9名の名前が刻まれている。
 
<海軍薩摩藩士戦死者墓>
 函館湾の海戦で戦死した薩摩藩士和田彦兵衛の墓、和田は新政府軍艦「春日」に乗船していた。
 「春日」では6名が戦死し、海軍戦死碑にも名前が刻まれているが、和田だけは遺族が後に個人の墓を建立した。かなり磨耗が激しく読み取るのも一苦労である。
 和田の墓に並んで、同じく薩摩藩士「土屋傳太郎直道」の墓がある。土屋も同じく「春日」に水夫として乗船していた。 
 更に隣には「黒阪源右衛門墓」の墓もある。






咬菜園跡

⇒咬菜園跡への交通
電停「大町」徒歩8〜10分(個人宅敷地内になっています)

北海道函館市船見町3-8

 弥生坂を登って行った先の左側、個人宅の庭に上記写真の案内板が建立されている。
 ここは安政4年名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪の土地の払い下げを受け、ここに庵を作り、各地の名花、名木を移植、箱館第一の名園として親しまれた。
 「咬菜」とは「粗食」のことで、五稜郭設計者、武田斐三郎が名付親である。明治2年箱館戦争の際、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した旧幕府軍総裁榎本武揚は明治2年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。






南部陣屋箱館詰藩士墓

⇒南部陣屋箱館詰藩士墓への交通
市電「どっく前」電停徒歩15分
北海道函館市船見町
 中国人墓地(「函館中華山荘)、外人(プロテスタント)墓地の先右側に「南部陣屋箱館詰藩士墓」がある。会津藩同様二度に渡り蝦夷地警備を命じられた南部盛岡藩は、南部藩は箱館から幌別までを担当、600余名が勤務していたが、病死した藩士も多かった。 この墓地には12名が埋葬されている。明治39年以来盛岡出身者有志で弔ってきたが、昭和12年散在していたのをここにまとめわれた。 陣屋があったのは、函館山ロープウェイ駅から下った所で、今も「南部坂」という地名が残っている。盛岡藩はここを元陣屋として、室蘭・長万部・砂原に出張陣屋を築いた。新政府軍の箱館総攻撃の日、この南部陣屋が市民の避難場所の一つとなったのである。新政府が誕生すると、箱館に箱館府が置かれて蝦夷地の経営を担当することとなり、東北諸藩の蝦夷地詰の人々は帰藩していった。






弁天台場跡


⇒弁天台場跡への交通
市電「函館どっく前」下車3分。
北海道函館市弁天町20-3(地図

1854年、箱館奉行竹内下野守等の上申により、幕府は弁天岬台場を築造することになった。安政3年、武田斐三郎の設計・監督によって着工され、不等辺六角形をした台場は、元治元年に完成した。箱館戦争の折、台場を占領した旧幕府軍は新政府軍と砲戦を展開したが、明治2年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか新撰組隊士達を含む約240名全員が降伏した。 左標柱は、函館どっくの正門右に駐車場があり、そこを抜けて奥に行くと、右側に下りる小さな階段があり、降りた先が昔の正門となっている。その隅にひっそりと左標柱が立てられてる。






新島襄海外渡航の地碑


⇒新島襄海外渡航の地跡碑への交通

北海道函館市大町11(相馬倉庫奥)(地図)

元治元年(1864)江戸から函館へ到着、ニコライ主教に日本語を教えるなど渡航の機会を伺っていたが、6月14日深夜、福士成豊の助力により、夜半、国禁をおかして、アメリカ船ベルリン号に乗り込み密航。 慶応元年(1865)7月9日、上海でアメリカ船に乗り替え、7月20日、ボストンに入港。渡米した新島は、修学10年の後、明治7年(1874)に帰国し、翌8年京都で旧会津藩士山本覚馬の協力により、同志社大学の前身、同志社英学校を設立した。また覚馬の妹八重子を妻とした。 渡航前の名前は新島七五三太(しめた)だったが、渡航中船長より「ジョセフ」の名を貰い、略して「襄(ジョー)」の字を当てた。






四稜郭


⇒四稜郭への交通
JR函館駅より函館バス6-2系統「神山通」下車徒歩30分
JR函館駅より車で20分。
拝観自由/入場無料

北海道函館市陣川町59(
地図
 四稜郭は、明治2年(1869)の箱館戦争時に、五稜郭の北東約3qの丘陵上に急造された洋式築城法に基づく堡塁で、4つの稜をもつ蝶のような形をしている。。
 明治元年、鷲ノ木に上陸後、五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、松前方面を攻略し蝦夷地を領有したが、翌明治2年の新政府軍攻撃により次第に函館方面に後退することとなった。
 このため、五稜郭背後を防御するため築造されたものである。
 同年4月下旬から脱走軍兵士200名と付近の住民約100名を動員して、昼夜兼行の工事により短期間で完成したが、5月11日早朝からの新政府軍総攻撃により、僅か数時間で陥落したという。






大円寺


⇒大円寺への交通
JR函館駅より車で15分。

北海道函館市神山3丁目4-1

 享保7年(1722)、建誉上人が箱館本寺称名寺より阿弥陀如来像を奉じて無量庵を創立。大正10年無量山大円寺と寺号を公称し現在に至る。
 境内には、箱館奉行役宅墓、官修墓地、五稜郭築造の際の殉難者を埋葬した無縁塚、旧幕府脱走軍、函館府在住隊の墓などが境内にあり、また土方歳三が埋葬されたという説もあるそうです。
 

 

 <官修墓地>
 墓地内に右写真のように標柱の建った官修墓が3基ある。
 中央が福山藩士河合要之助の墓。左が鮫島辰蔵、右が中村幸六郎の墓で、両名とも箱館府兵士で二人の墓は、七飯の宝琳寺にもある。

 <箱館奉行役宅墓所>

 五稜郭構築により、箱館奉行役宅や足軽長屋などを、郭外の鍛冶中道通りに設けられた。
 箱館戦争が始まり旧幕府軍が降伏、奉行所が廃止となるまで、この寺は奉行所の菩提寺となっており、奉行杉浦兵庫頭を始め多くの墓石が点在していたが、昭和50年(1975)に一角に纏めて整備したもの。






亀田八幡宮


⇒亀田八幡宮への交通
バスで「ガス会社前」下車徒歩10分
JR函館駅より車で5分。
拝観自由/入場無料

北海道函館市八幡町3-2
 1390年、河野加賀守森幸が越前敦賀の気比神宮から、祭神の応神天皇を勧請したのが始まりという。
 本殿と拝殿は1603年に建立されたと伝えられる。 
 現在の社殿は昭和39(1954)年に造られたもので、また、第一の鳥居は、1874年に松前藩最後の箱館奉行となった工藤茂五郎が奉納したものである。 現在の社殿に建て替える前の文久3年に改築された社殿は現在でも神輿殿として残されており(上写真)、箱館戦争時には官軍本陣となり銃弾の跡が神輿殿に多数残っている。 
 戊辰戦争では、明治2年5月17日幕軍榎本武揚・大鳥圭介等が、この社殿で黒田清隆らと降伏を誓約。 






五稜郭


⇒五稜郭への交通
函館バスにて「五稜郭(電停前)」下車徒歩15分 
           「五稜郭公園入口」下車、徒歩7分。
・市電湯の川行きに乗車 「五稜郭公園前」下車、徒歩15分
・函館駅より五稜郭タワー直行シャトルバス」運行。
・JR函館駅より車で15分(無料駐車場無しの為有料駐車場利用)
五稜郭公園】入場無料/園内自由
五稜郭タワー】展望料金:大人840円
開館時間:4/21〜10/20(8時〜19時)10/21〜4/20(9時〜18時)
市立博物館五稜郭分館】入場料:大人100円
開館時間:
4月〜10月(9:00〜16:30)11月〜3月(9:00〜16:00)
        休館日:毎週月曜日、毎月最終金曜日および祝日休館

北海道函館市五稜郭町43-9
 今更説明も不要化とおもいますが、、箱館開港にともない対外国船の防備を目的に武田斐三郎の設計により1866年築造された。榎本武揚や土方歳三らが明治新政軍と戦った、戊辰戦争最後の地。
 現在公園内に箱館奉行所を復元作業中です。

 

 

●上段左「市立函館博物館五稜郭分館」
   ・・・現在の建物はH19年11月末にて閉館予定(H22年に復元される箱館奉行所内にて再開予定)
●上段右「市立函館博物館五稜郭分館前の大砲クルップ砲」
   ・・・旧幕府軍軍艦「幡龍」が撃沈した新政府軍艦「朝陽」に艦載されていたと思われる。
   (隣には「ブラッケリー砲」があり、これは弁天台場を側面から援護する函館湾内の築島台場で使用されたと思われる)
●中段左「市立函館博物館五稜郭分館前にある玄関式台」
   ・・・しばらく箱館奉行所内玄関式台と伝わっていたが、近年の調査によりそ違う事が判明、
      函館税関の海側に面した玄関に使用されていた事が判明した。
●中段右「兵糧庫」・・・これは元治元年に五稜郭が築造された当時の建物で、食料等の物資を備蓄するための建物。
●下段「土方歳三像」・・・五稜郭タワー1Fエントランスに建てられている土方歳三の像。(タワーの展望階にも座像がある)