十倉綱紀墓


⇒十倉綱紀墓への交通
JR大中山駅より徒歩25分。JR函館駅より車で25分
北海道亀田郡七飯町中島25(地図
 国道5号線を長万部方面に進み、大中山橋直前、又は過ぎて3つ目の信号を左折、踏切を過ぎて線路に平行する道を行くと、本間鉄工所等の工場密集地帯があるので、その本間鉄工所の脇の細い道を入ると共同墓地がある。 共同墓地入って墓地の右端中頃に上記写真の会津藩士十倉綱紀の墓がある。
 嘉永3年1月20日十倉新助義方の嫡男として生まれる。下級藩士であった為、8歳で南学館に入学、15歳で日新館講釈所に入学(素読所以外からの合格者は綱紀だけ)戊辰戦争が始まると、越後口に出陣、上田伝次を隊長に、後赤谷、川より舟渡、熊倉を経て、のち城南戦の一ノ堰の戦いに参加。敗戦後高田に護送される際に「会津国替名残歌」を作った事で知られる。斗南を経て函館に渡り、後晩年は七飯の大中山村総代に選任され、役員を歴任昭和7年に死去。写真右の大きな古い墓石が綱紀の墓。傍らには、『十倉綱紀建立の墓』の碑が建立されている。






宝琳寺


⇒宝琳寺への交通

大中山駅より車で15分
JR函館駅より車で35分

北海道亀田郡七飯町字桜町529(地図

 函館から長万部に向かう途中の消防署手前を入ると突き当たりに宝琳寺がある。この寺には箱館戦争で戦死した新政府軍の墓地、八王子千人同心で新政府軍の大砲方伍長であった秋山幸太郎の墓などがある。
 宝琳寺墓地は、本堂右の駐車場脇の道を登った所が宝琳寺墓地となる(本堂左の道を上がった墓地は共同墓地となるので違う)
 
  <新政府軍墓地>
 宝琳寺墓地の入口入ってすぐに、案内板があり「箱館戦争戦死者墓」の案内と地図が書いてあるので迷うことは無い。
 柵内の墓は、石岡孫弥、葛西文三郎、備後福山藩士赤松岩太郎、橘高助五郎、北上直治、鮫島辰蔵、中村幸六郎の5基。
 この中の鮫島辰蔵と中村幸六郎については、函館市内大円寺にも墓がある。
 

 <荒井信五郎墓>
 榎本等旧幕府軍が鷲ノ木に上陸した際、備後福山藩等新政府軍の本陣に鷲ノ木の在住荒井信五郎よりの書状が届けられ、書状には
 『徳川海軍、開陽(橋船十五)、回天(橋船十五)、蟠龍(橋船五)、神速(橋船三)、長鯨(橋船十五)、大江(橋船十)、回春(橋船五)、鳳凰(橋船五)
右船の内一艘当村へ懸り、夜五つ半時頃鷲木村会所より三十人程上陸致し、明朝六百人程上陸致し候に付き、湯、宿手配致し申すべき旨申出候、薪五百敷用立致すべく趣に候  十月二十日 鷲木村荒井信五郎』
 と、旧幕府軍の上陸を新政府軍に知らせた人物。