<北檜山区丹羽地区>

玉川公園


⇒玉川公園への交通
JR「長万部駅」下車函館バス瀬棚線「檜山北高校」下車徒歩10分。
     ⇒
バス時刻表
函館市内より車で3時間半。

北海道久遠郡せたな町北桧山区丹羽(地図

 車が無ければ長万部よりバス。但し2〜3時間に1本ですので要注意。レンタカーが一番現実的かと。
 『玉川公園は「晩翠園」と称し、丹羽村の中央にあり、小金山は背後に峻立し、南方は一面の田畑にして利別川は東西に流れ、遊楽部岳及び太櫓岳は遠く雲際に聳え、地籍7万4千88坪を有し…』と旧会津藩士丹羽五郎が自叙伝『我が丹羽村の経営』の中で述べている玉川公園。広い公園内には以下のような丹羽五郎関係の史跡が多く点在する。この中に出てくる「小金山」という名称は、元々の名称ではなく、丹羽五郎が丹羽村の恩人「小野田元熙」と「金原明善」の二人の頭文字を取って命名したものである。

 <玉川神社>
  玉川神社は、明治25年(1892)3月29日、入植者達の地所の割渡が定まった後、丹羽五郎は入植者の団結と敬神の心を養う為、小祠を祀り、玉川神社と称した。現在、立派な玉川神社は小金山の山頂に鎮座するが、当時は移住者の住居もまだ熊笹葺の仮小屋にすぎず、小祠も形ばかりのものであったと思われる。 そして、4月1日午後より小祠の祭典を行った。やがて、開墾が軌道に乗った頃、神楽堂を設け丹羽家の出自とする「坂上刈田麿」を祀る青森県岩木神社に勧請し、神霊を奉斎すると共に、「坂上田村麿」の神霊も合祀、また玉川神社の御神体として「丹羽五郎の愛剣」をも祀っている。
 

 <会津白虎隊玉川遥拝所>
 旧会津藩士であった丹羽五郎は、同世代で戊辰戦争の際飯盛山で自刃した士中白虎二番隊士19名の慰霊を祀るため、大正13年7月、この地に「会津白虎隊玉川遥拝所」を建立した。
 尚、自刃隊士の中には五郎の従兄弟にあたる「有賀織之助」と「永瀬雄次」も含まれている。
 各墓標の隊士達の名前は、会津藩縁の人物に書いて貰っていて、丹羽五郎は従兄弟の「永瀬雄次」の名前を記しています。
 外にも、著名な人物の名前も見られ、五郎の子の七郎、八郎、十倉綱紀、柴五郎、出羽重遠、宗川虎次、藤沢正啓等の名前を見る事が出来ます。
 そして、現在の遥拝所は昭和46年11月20日、丹羽開基80周年記念事業として修復工事されたものである。

 <三十三観音>
 明治5年当時、五郎は羅卒になる事を恥て「田村五郎」と変名し羅卒に従事、明治6年には羅卒小頭に昇進。明治8年には警部補を拝命、明治10年1月には権少警部となっていた。同年1月31日鹿児島私学校の生徒が政府弾薬庫を襲う報を知ると、田辺警視を介して川路大警視に面会し警部となって出張したい旨を乞う。 3月12日山県参軍より「警視抜刀隊」と命名された警視隊の選りすぐりの精鋭部隊に参加する。五郎は14日加藤寛六郎警部と二十名を率いて斬りこみを行った。戦中、五郎は二等少警部に進み、小隊長に抜擢され、田原坂の激戦に参加、この戦いで33名が戦死、50名が負傷、無傷の者は17名に過ぎなかった。 大正3年にこの戦いで戦死した33名の部下の慰霊を、三十三観音にちなみ、部下の名前を記し自動車道路沿いに33基を建立した。現在はその場所が適切でなくなった為、玉川公園の石段中腹辺りから、白虎隊の墓辺りまでに移された。

 

 

●上段左「石山虎之助墓」・・・柴五郎筆となっています。
●上段右「簗瀬勝三郎墓」・・・男爵出羽重遠筆となっています。
●下段左「丹羽五郎胸像」・・・玉川公園入口入って直ぐ右側に碑と並んで建立されています。
●下段右「丹羽五郎翁頌徳碑」・・・丹羽村を拓いた丹羽五郎の功績を称える碑。





能教寺


⇒能教寺への交通
JR「長万部駅」下車函館バス瀬棚線「玉川公園前」下車徒歩20分。
     ⇒
バス時刻表
函館市内より車で3時間半。

北海道函館市青柳町9-23(
地図
 丹羽五郎は入植して5年目の明治29年、村内信徒の寄付により中村の高燥で寺院向きの好位置に「説教場」を設け、東本願寺派に属した。仮として「能教寺」と称した。「能教」は五郎の曽祖父丹羽能教の諱より取ったもので、敷地五町三反三畝歩は全て丹羽五郎の寄付によるものであった。
 しかし、三十年後にも未だ正式な寺号が決まらずにいた為、五郎は管理者及び信徒の怠慢と早々に寺号を定めるように注文をつける。
 そして、昭和3年8月30日、丹羽五郎が76歳で死去する7日前に正式に寺号が「能教寺」と定められたのである。






丹羽村共同墓地


⇒丹羽村共同墓地への交通
JR「長万部駅」下車函館バス瀬棚線「玉川公園前」下車。
     ⇒
バス時刻表
函館市内より車で3時間半。

北海道久遠郡せたな町北桧山区丹羽

 当時の北海道各市町村共同墓地は、その多くが狹隘不潔、不整備で道路もない。それに比べ丹羽村の共同墓地は車道を縦横に切り、区画整然、一戸二十五坪を配分、旧盆には部落全員が出役して道路の修繕、墓所の掃除をする慣わしになっていたという。

 玉川神社より長万部方面へ向かって檜山北高校手前を左に入る道があるので、上っていくと左側に上記写真の「丹羽村共同墓地」がある。
 
 <丹羽五郎墓>
 共同墓地入口を入って二股の右側の道を登っていくと、山頂に丹羽家墓地がある。殆ど新しい墓石になっているので、近年全て新しく立て替えなおされたものと思われる。丹羽五郎は、会津藩士丹羽族の嫡男として生まれ、唯一の男子として事の外可愛がられた。丹羽族の家は100石の分家で、本家は代々家老を排出してきた一千石の家柄であったが、本家の丹羽起四郎の唯一の男子である寛次郎宗源が京都にて僅か42歳にて病死してしまった為、本家の跡取りが居なくなってしまった為、本家の隠居丹羽起四郎より「五郎をして宗家を相続させむべき」との厳達があり、族一家は唯一の男子を奪われ夜を徹して悲嘆に暮れ、五郎は12歳にして一千石の当主となった。戊辰戦中には実父族が長岡よりの避難民を救う為自害。戦後は斗南には移住せず、平民となり、困窮より名を変名して羅卒となる。その後、この瀬棚に一族や猪苗代の農民を率いて移住し開墾、丹羽村を拓いた人物である。
 

 <丹羽太郎墓>
 五郎は、9人の子をなしたが、其の内成人したのは四郎、七郎、八郎のみであった。しかし、大正7年12月跡継ぎの四郎が36歳にして急死。66歳の五郎の精神的打撃は想像を超えるものであった、四郎を亡くした五郎の愛情は四郎の遺児で四郎の死後二ヵ月後に誕生した孫の太郎集中、五郎の生き甲斐となった。太郎は幼少の時から頸部に皮膚病があったが、父四郎も同様であったのでそのままにしていたが、だんだん拡大して胸にまで蔓延、一年生になり、2月、皮膚病は一変し、医者の意見で急ぎ札幌か函館か東京の病院に入れるべきであるという。五郎は大正15年2月11日東京の病院に太郎を入れる為特注の馬橇で丹羽村を出発。函館桟橋で五郎は別れ自宅に戻り、太郎一行は急行寝台を乗り継ぎ上野に着き七郎宅に一泊、翌14日信濃町の慶応病院に入院。だが病状は深刻で、悪化の電報を受けた五郎は暗夜行で寝台を乗継ぎ慶応病院に向かった。五郎が病室に到着すると「オヂーサン」と呼び大いに喜んだという。五郎は翌日から徹夜で看病。太郎は腎臓病で尿毒症を併発、医者は「いかに田舎の医者でも、この病人を東京に送ることは余りにも酷い」と嘆いた。2/18五郎は外出して戻るとドアに「面会謝絶」の張り紙があり、太郎は「オジーサン」と呼び、母である遊喜子は「太郎サン、太郎サン」と慟哭して倒れ、太郎は5時55分死去した。 五郎は余りのショックに20日間起き上がる事が出来ず慟哭の日々が続いたのである。

 <丹羽勘解由宗源墓>
 丹羽起四郎が隠居の後丹羽本家一千石を継いだのは、四男寛次郎宗源で勘解由と称した。文久二年会津藩が京都守護職を命じられると、その年の9月9日寛次郎は「表御用人書簡役」として藩公に従い会津を出発。途中江戸で滞在中、長州の久坂玄瑞と桂小五郎を「〜宴席に臨む。坐中長州藩士久坂玄瑞、桂小五郎あり、寛次郎酔に乗じ久坂の背後に廻り、其短髪を攫みて曰く。叛かんと欲せば早く叛くべし、僧ならず俗ならず、何と斯くの如く曖昧なるやと。又小五郎を見て曰く、汝の面何ぞ奸相なるやと。」と揶揄したという逸話も残っている。12月24日寛次郎らは京都黒谷に到着し清泉院に宿。寛次郎は豪胆で、元治元年7月蛤御門の変が起こると、この時病に倒れて歩行も困難な有様であったが、輿を用意させ、輿の上から部下を指揮したと言われ、戦後数日にして寛次郎は黒谷に病没。享年42歳であった。(※しかし、文久3年12月6日黒谷にて死去している為、その後に起こった蛤御門の変で指揮が取れる筈は無く豪胆な寛次郎を悼んでの創作であると思われる)

 

 

丹羽家墓地よりの丹羽村の眺め

 





荷卸の松


⇒荷卸の松への交通
JR「長万部駅」下車函館バス瀬棚線「玉川公園前」下車。
     ⇒
バス時刻表
函館市内より車で3時間半。

北海道久遠郡せたな町北檜山区西丹羽

 明治25年3月21日会津町を出発した丹羽五郎一行は、道無き道を歩きながら、ようやく貸付許可地内に入った。この辺りは樹林が鬱蒼と繁っており、これだけ著しいのはよほど肥沃な土地に違いないと思われた。そして、そこにあった水松樹(おんこ)があった。
 たどり着いた一行は、荷物をこの巨大な水松樹の根元に卸し、この大樹の下に数日間野宿し、小屋掛と地所の割渡に着手した。
 現在この水松樹は「荷卸の松」と名づけられ、丹羽村発祥の地として崇められいるが、近年道路改修で移植された事もあって、往年の樹精が衰えているという。
 






<瀬棚区 旧会津町>

事比羅神社


⇒事比羅神社への交通
JR「長万部駅」下車函館バス瀬棚線「玉川公園前」下車。
     ⇒
バス時刻表
函館市内より車で3時間半。
函館バスセンター発 (15:29)⇒瀬棚区上三本杉着 (19:08)
(※但し函館行きは朝6:15発の為一泊確実です)
北海道久遠郡せたな町瀬棚区三本杉34-1
 ここは2005年9月1日の合併により上の丹羽村と同じ「せたな町」にはなっているが、元々は瀬棚郡瀬棚町で、明治3年3月に瀬棚郡が斗南藩支配地となった為、五戸を移し、更に4年5月には八戸を移して開拓を行った。それゆえ、この地は会津町と称していたが、戦後の地名変更によって、本町という名称に変わり、会津町という名称は消えてしまった。
 また、明治25年3月19日瀬棚の会津町に上陸した丹羽五郎移民一行は、ここ事比羅神社の古い建物を借受け一行の自炊生活を行い、21日屈強の人々20人雇い、会津町を出発したのである。







三本杉岩


⇒三本杉岩への交通
JR「長万部駅」下車函館バス瀬棚線「玉川公園前」下車。
     ⇒
バス時刻表
函館市内より車で3時間半。
函館バスセンター発 (15:29)⇒瀬棚区上三本杉着 (19:08)
(※但し函館行きは朝6:15発の為一泊確実です)

北海道久遠郡せたな町瀬棚区三本杉
 三本杉岩は、高さ30メートル前後で海面にそびえ立つ暗灰色の安山岩で、上層部には岩松や寒冷地特有の植物が緑を添え、独特の風情をもっている。
 明治23年7月12日、開拓の為の探索に瀬棚にやって来て、その日はこの三本杉海岸の木ノ下旅館に投宿した。
 この辺りは、当時は会津藩士達が入植した地であり、何戸かの子孫が残っており地名も「会津町」と称していたが、戦後の地番変更で「本町」と名称が変わってしまい、現在「会津町」の名を留めていない。





 

<北檜山区 若松地区>

若松神社


⇒若松神社への交通
長万部より車で2時間。
函館より車で4時間。

北海道久遠郡せたな町北檜山区若松
  丹羽村と同じ北檜山区にある「若松町」は、丹羽村同様会津よりの移住者によって創設された町で、丹羽村が瀬棚村⇒東瀬棚村⇒北桧山町と属したのに対し、若松は太櫓村に所属していて丹羽村とは別村であった。昭和34年の町村合併により同じ北桧山区となった。
 若松に会津人が入植したのは明治30年で、丹羽より5年程遅い。
 明治29年7月若松の高瀬喜左衛門外7名が「会津殖民組合」を設立し、太櫓地区の五百町歩の未開地貸下の許可を受けた。
 8名というのは、高橋喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吉、穴沢祐造の8名で、いずれも当時の若松の錚々たる財界人、名士の集団で、これらの設立者は開拓資金を出した経済人で、もとより自ら移住したわけではなく「不在地主」となったのである。
 
 <若松開拓百年記念碑>
 若松神社の参道入口に建立されている開墾百年の記念碑。
 下の黒石に刻まれている碑文には『会津の人ら移り来て、若松の原野に鍬を振り、この地を拓きて百年に、四季の移りに色映えて、先人の遺徳偲ぶがに、緑増しくる みおや松、遊楽の園より遠く望み見る、永久のしあわせ祈るごと、高くそびゆるユーラップ湧き出でて沃野潤す太櫓川、益々栄えゆく郷よ新なる世に、遺志継ぎゆかむ手を携えて』と刻まれている。
 明治30年4月最初の11戸が入植、翌年には戸数が51戸に増え、3年目の明治33年には187戸と飛躍的に増加したのである。
 若松開拓は丹羽村と違い、最初から小作人として入植。北会津・河沼・大沼の各郡からの移住者が多かったようである。






法覚寺


⇒法覚寺への交通
長万部より車で2時間。
函館より車で4時間。

北海道久遠郡せたな町北檜山区若松479
  上記の若松神社より更に江差方面へ向かった少し先に若松山法覚寺がある。
 法覚寺の入口には昭和9年5月村の人々によって建立された「開拓記念碑」がある。この碑は、会津にて造られ、昭和9年6月9日一戸より一人づつと小学生、処女会員等総勢400名によって東瀬棚駅より運び6月10日碑が建立され6月15日盛大に除幕式が行われたのである。碑文には『
 開拓は百年の計なり。荒廃を変して良田と為し、狸棲を化して人寰を成す、豈容易の業ならんや。明治二十九年会津若松の人高瀬喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吉、穴沢祐造の八名相謀り、殖民組合を組織して七月未開地五百町歩の貸附許可を得て開墾の事を創む。(下に続く)
 
 <若松開拓記念碑>
 (上より続く)
九月組合主任穴沢祐造氏、農場管理者笹原倉次郎氏等渡道す。当時密林天を蔽ひ、荊棘道を塞き、狐途熊経錯綜せり。十月測量の際偶巨樹オンコの雌雄を発見して祖松と名つけ、地を若松と称す。翌三十年四月第一次移民十一戸、各所に茅屋を営み耘耔に従事す。榛を除き莽を芟り、具に苦楚を嘗め、頗る惨境に堪ふ。爾来幾星霜神社を奠め寺院を建て、吉武是正氏入りて布教に任する等苦心到らざるなし。斯くて小学校、報徳社布教所、其他各般の施設成り、現戸百二十二、開きたる土地千五百町歩の内百町歩を開墾者に分譲して農家の基礎を鞏固にし、逐々隆盛の機運に向い、今や美田穣々炊煙靄々、住民鼓腹撃壌す。噴快なる哉。顧て惟ふみ今日ある蓋し故穴沢祐造氏の功最も大なり。当時外は熊蝮の害を防ぎ、内は人心の統一に務め、或は死線を越えて奮闘し、或は牧畜蚕業を興し、水田を計画して永遠に福祉の基を立てたり。古語に曰く、人定って亦能く天に勝つと、氏の如きは能く自然を征服せし人と謂ふべし。併記して以て後昆に伝ふと云爾。』